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モリッツ・グロスマン あるマイスター時計師が語る半生とグラスヒュッテ高級時計産業の歩み(1/11) 2017年1月号(No.68)

 彼と私の間には、ちょっとした偶然が横たわっている。

 1998年3月上旬。日本の時計専門誌として初めて、ドイツ・グラスヒュッテのA.ランゲ&ゾーネの工房を訪ねた。その後に続くグラスヒュッテ訪問の嚆矢となったその日、私がまず案内されたのは、機密事項の宝庫であるプロトタイプアトリエであった。

 今から考えると想像すらできないのだが、当時はそんな牧歌的な空気がこのアトリエには満ちていたのである。なぜプロトタイプアトリエだったのか? 理由は簡単で、新生ランゲのファーストモデルのひとつ、「トゥールビヨン “プール・ル・メリット”」に使われている鎖引き円錐滑車の組み立て実演の撮影を事前に依頼していたからだ。このアトリエの責任者としてトゥールビヨンの組み立てを手掛けていたのが、本稿の主人公であるイェンス・シュナイダーだった。彼は「単なるデモンストレーションですから気楽に」という周囲の声に耳を貸さず、打ち解けなさを眼光に携えた表情でムーブメント全体の組み立てで最も難しいとされていた円錐滑車を遊星歯車に渡す作業を披露してくれた。利き目の左目にホールドされたキズミ、そのレンジの下方約30mmにしかと据えられた遊星歯車と円錐滑車のランディングの緊迫は、その時に撮影された写真を見るだけではっきりと甦ってくる。かのギュンター・ブリュームラインをして「彼の時計作りに関する姿勢にはフィロソフィーを感じる」と言わしめた、まさに工房の支配者であった。

 しかし、仕事に対する厳然とした態度とはちがい、シュナイダーには機密保持という意識がまるでなかった。彼の作業机の最も目立つ場所には、あろうことか“クロノグラフ・ムーブメント”のプロトタイプが裸の状態で置かれていたのだ。日本の若いジャーナリストにムーブメントの素性など分かるはずがないと高を括ったのか、はたまた生来の楽天的な性格がそうさせたのか。しかしそのおかげで私は、翌99年に発表され、20世紀の最後を飾るにふさわしい手巻きクロノグラフの最高峰「ダトグラフ」の存在を、メディアとして初めて知ることができた。もちろん、99年のバーゼル・フェア開催前にいち早くグラスヒュッテを再訪し、完成なったCal.L951.1を真っ先に撮影する幸運にも恵まれた。機械台に保持されたCal.L.951.1を手にして写真に収まっているのは、言うまでもなくイェンス・シュナイダーその人だ。

 現在、彼は古巣を辞し、新生モリッツ・グロスマンの主任設計者として存分に力を発揮している。一方、彼がランゲを巣立った2009年以降、私は残念ながら再度の偶然に忍び寄る手立てすら持てないでいる。あの厳かさとゆるさの共存した人間性が懐かしい(古川直昌/ webChronos  編集主幹 )

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