モリッツ・グロスマン あるマイスター時計師が語る半生とグラスヒュッテ高級時計産業の歩み

2016.12.02

いかにも東ドイツといった風情を持つ集合住宅の、屋根裏を改装したシュナイダー氏の自宅工房。GUBの管理ナンバーが入った時計旋盤は、東西ドイツの再統合後に廃棄されそうになった古い工具を引き取ったもの。さらに本を正せば、敗戦時に接収されてしまった工具にかわって、粗大ゴミ同然だった古い工具をレストアしたものに行き着く。棚に並んだクロックは、趣味で集めている電子式振り子時計。GUB時代に設計されたエレクトロクロンは5〜6項目の特許を取得している。ただし、動かすとかなりウルサイらしい。右上は英国製のカプセル懐中時計でチェーンフュジーを搭載。中央のグロスマン製ムーブメントは、対米向けの関税対策として単体で輸出されたもの。いずれもeBayで入手。

 A.ランゲ&ゾーネに入社後、オーストリア出身の時計師、クルト・ケルバーと知り合いました。彼はバイエルンとの国境に近いクーフシュタインに自分の店を構えて、ランゲの懐中時計を修理してきた経験豊富な人物でした。彼がプロトタイプ部門の責任者となって、私は彼の下で働くことになりました。ケルバーは特に“手仕事の伝統”を大切にした人で、これを腕時計にも採り入れたいと考えた人でした。私がプロトタイピストを務めていた時代、アウトサイズデイト表示や「1815」を試作する際に、彼の下ではさまざまな実験が繰り返されました。彼は後に独立時計師になったリヒャルト・ハブリングの師匠でもあり、私も非常に尊敬していましたが、残念ながら57歳の若さで亡くなってしまいました。

 私がランゲのプロトタイピストとなった当初は「トゥールビヨン “プール・ル・メリット”」などの設計を担当したルノー・エ・パピ(現APルノー・エ・パピ)で仕事をすることも多くありました。当時はまだ紙の設計図の時代ですから、2〜3年かけてプロトタイプを仕上げてゆきます。一度組み上げたものを分解して、1カ月以上かけて検証することもありました。当時ルノー・エ・パピの工場長はアントニー・デ・ハス(現A.ランゲ&ゾーネ製品開発責任者)でしたから言葉の問題はありませんでした。その頃はロベール・グルーベル(現グルーベル フォルセイ)やアンドレアス・ストレーラー(独立時計師)も工房にいました。代表のジュリオ・パピは非常に有能な人物ですが、オーガナイズはフランス的というか、思い付きでしたね。ここの長所は才気溢れる設計者たちみんなでアイデアを出し合うことですが、反面スペシャリストはひとりもいません。旧GUBは大所帯でしたが、各部門は専門職の集まりだった。現在のグラスヒュッテ時計産業も、それを受け継いでいる面があると思います。特に今のモリッツ・グロスマンは専門職の集まりです。