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エルメス/アルソー タンシュスポンデュ(1/1) 2013年09月号(No.48)

HERMÈSARCEAU LE TEMPS SUSPENDU

「このまま時が止まってくれたら……」という思いは、誰しもが一度ならず経験するところ。その願いを腕上でかりそめにもかなえてくれる小粋な装置は、夢幻と現実を行き来する旅へと我々を誘ってくれる。

ユリア・クナオト: 文 Text by Julia Knaut
OK-PHOTOGRAPHY: 写真 Photographs by OK-PHOTOGRAPHY
市川章子: 翻訳 Translation by Akiko Ichikawa


point
・独創的な機能を搭載
・デザインが個性的
・仕上げ加工が非常に丁寧

point
・精度が中庸
・視認性が弱い

美しい時よ、永遠に

教において、瞑想は悟りに至る道である。その際、意識を今に留めるようにすることが肝要だという。過去にも未来にもとらわれることなく、一瞬一瞬に心を委ねることこそが狙いなのだ。そのように瞑想していると、やがて時の流れという事象は、意識の彼方へと離れるという。

それからいくと、機械式時計というものは仏教的思考からはかけ離れた存在であろう。時計を身に着けると、針の下に潜む機械の世界や脱進機がチクタクと発する息づかいから、連綿と続く時間の経過を思い起こさずにはいられない。文字盤の針を見てしまうと、どれだけ時間が経過してしまったか、あるいはまだどれだけ時間が残っているかが否応なく分かってしまう。これに関しては、どの機械式時計も共通している。ところが、その例外を作り上げてしまったのが、エルメスのタンシュスポンデュだ。この時計は、普通に考えると明らかに不可能なことをやってのけた。すなわち、時を止めることができるのである。

仏教を信仰するしないにかかわらず、すべての人間には、今この時ができるだけ長く続いてくれたら、と思う瞬間があるはずだ。例えば、心地よい夏の宵に、バカンスでイタリアの小都市の川べりを散策したり、きらめく太陽の下、氷河湖で泳いだりするような愉しいひと時には、誰しもそのように感じたことがあるはずだ。その瞬間の思いこそが、仏教思想のいうところの刹那というものなのだろう。そこには過去も未来も意味をなさないのだ。

エルメスのアルソーコレクションに加えられたタンシュスポンデュは、時の進行を忘れさせてくれる腕時計である。ケースサイドのボタンを押すと、時・分針が瞬間的にジャンプして、文字盤12時位置の〝仮想時空間〟へ収まり、日付表示のレトログラード針は4時位置から5時位置へ続く、少しせり出した文字盤の縁の陰に消えゆく。このように文字盤上の針の運行を留保することで、好きなだけ〝時を止める〟ことができるというわけだ――少なくとも時計の文字盤上だけは。

この詩的な機能は、エルメスと共同チームを組んだ機構開発集団アジェノーのジャン︲マルク・ヴィダレッシュ氏によって考案された。モデル名となったフランス語の〝タンシュスポンデュ〟とは、文字通りに訳すと〝引っ掛け置かれた時間〟という意味だ。詩的というよりはむしろ即物的な感じだが、ピックアップされ隔離されることが転じて、留め置かれた時間を指すというわけだ。しかし、現実には時の流れをせき止めることはできないように、搭載されるムーブメントは針が静止しても動き続ける。この時計で圧巻なのは、サイドボタンを再び押しさえすれば、針が現在の時間と日付にジャンプすることだ。だが、もし思い出をキープして現実の時間に戻したくなければ、時計の針を動かさずに眠らせておくこともできる。

プッシュボタンを押すと、時・分針は12時位置の扇形スペースの“仮想時空間”へジャンプして、針の動きは凍結される。同時に、日付針もせり出した文字盤の下へ瞬時に移動して姿を消す。あたかも時の流れが止まったかのような気分を味わうことができる。

このように夢幻を表現できるタンシュスポンデュは、他のアルソーラインのモデルと同様、外装のディテールも見る者を引きつける。シルバーカラーの文字盤は段差が設けられ、旋回したような流れに沿って置かれたゴールドのインデックスのフォントは、ことのほかエレガントだ。鏡面に磨き上げられ、丸みに段差を持たせたケースや、エルメスらしいラグも、独特の雰囲気を作り出している。カーブを描いたラグは馬具の鐙(あぶみ)を想わせる形になっていて、〝アルソー〟というコレクション名も、そこにちなむ。アルソーとは、フランス語でアーチ部分を意味する言葉なのだ。フォールディングバックルが取り付けられたダークブラウンのアリゲーターストラップも、この時計に似つかわしい。このように、さまざまな特徴を持つ構成要素が盛り込まれているにもかかわらず、調和したデザインにまとまっていて、それが他にはない魅力を醸し出している。

さらに、つぶさに鑑賞すると、幻想に引き込まれるような感覚に陥るかもしれない。うれしいことに、ルーペを通して見ても、これといった不満が見当たらないのだ。ゴールドのアラビア数字はペイントではなく、薄皮のごとく繊細なアプライド式。数パーツ構成のケースからは、加工作業の丁寧さが伝わってくる。裁ち切りした縁をラッカー塗りした、手縫いのストラップも装飾的要素のひとつだ。エルメスは馬具商としても長い歴史を持つのは周知の通りだが、このストラップもエルメスの工房で手作りされている。ラグと同じく鐙のようなアーチを持つバックルも、細やかな仕上がりながら、不用意に開くことのない、人間工学に基づくしっかりした作りだ。エルメスのディテールへの並々ならぬ愛がことに表れているのは、バックルの爪だ。アーチの両端をつなぐように渡されたバーにカーブした爪を載せ、フォールディングバックルでありながら、あたかもツク棒付きの尾錠のような形にフライスされている。これがアルソーコレクションに忘れ難い印象を与えているのだ。

自社内で手縫いされたアリゲーターストラップには、革の扱いに慣れた老舗らしい上質さが漂う。馬具商からスタートしたエルメスらしい、鐙(あぶみ)を想わせるバックルは、遊び心を加えつつ、しっかりとした作りだ。

ところで、腕時計を日常的に使用していると、つい動かすのを忘れて止まってしまうこともある。そんな時も、このタンシュスポンデュは煩わしさを感じさせない。つまみやすいリュウズは2時位置にあり、すんなり引き出せるので巻き上げも針合わせも楽々。また、時間を停止させるプッシュボタンも、リュウズと同じくなめらかな感触で操作できる。ストラップはケース側からバックル側に向かって、なだらかに薄くなっているので、腕への着脱はスムーズ。しなやかな革のおかげで、圧迫感もない。時を静止するという、贅を尽くした特異な機能ばかりでなく、良質の素材を使用して、丁寧に作られていることも分かる仕上がりなのだ。その価値は、着けて使用してみると肌から伝わってくるはずだ。

それにしても、本当に時を止めることができたらどんなに素敵だろうか。しかし、たとえそれができたとしても、意識の深層では時間の流れを忘れられず、今が本当は何時なのか、時折、知る必要も出てくるに違いない。となると、時刻確認のためには必然的に文字盤に注目せざるを得ないわけだ。タンシュスポンデュは素材違いでいくつかのバリエーションがあるが、シルバーカラーの文字盤を使用したモデルは、文字盤とアラビア数字のインデックスとのコントラストが必ずしも優れているとは言えない。透かし彫りを入れた針も、控えめなきらいがある。加えて、レトログラードの日付の数字は細く小さい。それでもこの時計の佇まいに魅了されてしまうと、落ち着いて少し長めに文字盤を見るくらいは苦にならないように思う。その際、秒針が付いていないことなど、まず気にはならないだろう。

タンシュスポンデュをとりわけ詩的たらしめているのは、その哲学的でさえある機能そのものだが、それを探っていくと行き着くのは地道な技術開発だ。アジェノー製モジュールによる針の静止機構には、上下の位置でシンクロするふたつのホイールを採用。下のホイールは分針と日付針を、上のホイールは時針に働きかける。これらの針は3つのスネイルカムによりコントロールされ「動」と「静」の切り替えが行われる。9時位置脇のプッシュボタンを押すと、スネイルカムが動いて針が持続運動から切り離され、同時にコラムホイールに掛かるレバー(図版:灰色)が動く。このレバーが押し動かされることにより、そこに接する時針、分針、日付針に作用する先端が櫛歯状のレバー(図版:緑)がスライドするように動き、櫛の歯は最も外側の部分で歯車に掛かった状態になる。その動きによって、時針と分針はジャンプし、〝仮想時空間〟である12時位置の扇形スペースに飛ぶのだ。その際、時針は12時の少し手前の位置に、分針は12時から少し後ろの位置に収まるようになっている。そして、時・分針の移動とともに、日付針は右側へ動き、4時から5時位置にせり出した文字盤の下に隠れる。この操作を行って、腕に着けた者が時を閉じ込めている間も、文字盤の下ではテンプと輪列は止まることなく動き続ける。そして、プッシュボタンを再度押すと、再びスネイルカムが回転して、レバー類の位置が戻る。こうして針は〝仮想時空間〟から瞬時にジャンプして帰還を果たし、途切れず流れている現実の時間を指し示すというわけだ。

右の図は、時・分針が通常に動いている状態。“時を忘れる”ためにプッシュボタンを押すと、左の図のように、バー(青)が突き動くことにより、同軸の上下に2枚置かれたスネイルカム(濃いピンク)が回転して、歯車と時・分針の連動が解かれる。同時に、制御ホイール(赤いコラムホイール)が回り、そこに接しているレバー(灰色)が、先端部が櫛歯状になったレバー(緑)に働きかけ、すべての針は瞬時にジャンプして、時・分針は12時位置の扇形スペースに、日付針は4時から5時位置に格納される。リセットするためにもう一度プッシュボタンを押すと、再度スネイルカムが回転することにより時・分針がジャンプし、継続して動いていた歯車と連動を再開して、現在時刻の表示に戻る。

ベースムーブメントに搭載されるモジュールは設計がエレガントなだけでなく、美麗に仕立て上げられているのも特徴のひとつだ。櫛歯状レバーやスネイルカムはスケルトナイズされ、ブリッジや地板にはコート・ド・ジュネーブやペルラージュの装飾研磨が施されている。これほど手のかかった仕上がりなのに、ソリッドバック仕様のケースの裏蓋を外しても、モジュールはベースムーブメントに覆われてしまっているのは何とも釈然としないものがある。モジュールは文字盤側にあるので、麗しき構築美を拝することができるのは時計師だけなのだ。
刹那が特別な意味を持つ仏教思想においても、到達するところは〝内なる美〟がもたらす平穏だろう。それこそがタンシュスポンデュの真骨頂ではないだろうか。内包する美しさは時計を所有する者でさえ通常は見ることはできないが、目に見えないところにある美を持つことの根源的な意義をあらためて考えさせられる。

エルメスの紋章が浮き彫りされた裏蓋も優美。その下にはベーシックな自動巻きムーブメント、セリタSW300が密やかに息づく。

もっとも我々のテストでは、美を評価する傍ら、歩度検査機に掛けることも忘れてはいない。テスト期間中の平均日差は、わずか3秒の進みを見せたのみ。ところが、最大姿勢差は7秒と出た。データを総合すると、目をみはるほど抜きんでた精度水準とは言えないものの、中間クラスに収まっているといったところか。
さて、このモデルの価格は357万円(ステンレススティールモデルは155万4000円)。独自性がありつつも流行に左右されないデザイン、ケースからストラップに至るまでの非常に丁寧な仕上がり具合、そして、綺麗に装飾され、卓越した設計のモジュールが、ほかには見当たらない個性を確立している。そんな時計にとっては、この価格は突飛なものではないだろう。タンシュスポンデュが特異なのは、時間の具現化である時計という存在をもって、見る者に永続性ではなく〝刹那〟を意識させたということにもあるのだ。人間の持つ煩悩を、仏教的哲学観を通してフランス流に昇華させて表現したのは、やはりエルメスのエスプリならではだろう。

“時を忘れる”という抽象的概念を、巧みな設計で表現したアジェノー製モジュール4111。美麗な仕上げは、詩的な機能に似つかわしいクォリティを備える。

技術仕様
エルメス/アルソー タンシュスポンデュ

製造者: ラ・モントル・エルメス
Ref.: 038688WW00
機能: 時、分、日付表示(レトログラード式)、運針停止機能
ムーブメント: セリタSW300、自動巻き、アジェノー製モジュール4111搭載、2万8800振動/時、45石、耐震軸受け(インカブロック使用)、偏心スクリュー付き緩急針、パワーリザーブ約42時間、直径34㎜、厚さ6.15㎜
ケース: 18Kローズゴールド製、片面無反射加工のドーム型サファイアクリスタル風防、ソリッドバック(5カ所ビス留め)、3気圧防水
ストラップとバックル: アリゲーターストラップおよびローズゴールド製フォールディングバックル
サイズ: 直径43㎜、厚さ13㎜、重量149g
バリエーション: チョコレートカラー文字盤およびスレンレススティールモデル(155万4000円)あり
価格: 57万円

*価格は記事掲載時のものです。記事はクロノス ドイツ版の翻訳記事です。

精度安定試験 (T24の日差 秒/日、振り角)

平常時    
文字盤上 +2
文字盤下 +3
3時上 0
3時下 +7
3時左 +6
3時右 0
最大姿勢差: 7
平均日差: +3
平均振り角:
水平姿勢 290°
垂直姿勢 257°

評価

ストラップとバックル(最大10pt.) 9pt.
操作性(5pt.) 5pt.
ケース(10pt.) 9pt.
デザイン(15pt.) 13pt.
視認性(5pt.) 3pt.
装着性(10pt.) 9pt.
ムーブメント(20pt.) 16pt.
精度安定性(10pt.) 7pt.
コストパフォーマンス(15pt.) 12pt.
合計 83pt.
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