ニヴァロックス・ファー社によるヒゲゼンマイの供給削減が引き起こした時計業界の激震(後編)

FEATURE本誌記事
2020.10.16

機械式時計の文字通り“心臓”である脱進機と調速機。前者はガンギ車とアンクル、後者はヒゲゼンマイとテンワで構成される。これまで、多くの時計メーカーにこの心臓部を供給してきたニヴァロックス・ファー社による供給削減が引き起こした時計業界の激震。スイスだけでなく、ドイツ、日本をも巻き込んだ業界再編の胎動を報告する後編。

前編から読む
https://www.webchronos.net/features/52702/

ギズベルト・L・ブルーナー:文 Text by Gisbert L. Brunner
市川章子:翻訳 Translation by Akiko Ichikawa
[クロノス日本版 2013年1月号初出]


段階的に模索するスイス

スイス・ジュラ地方に位置するニヴァロックス・ファー社(Nivarox-FAR)のアトリエ。スイスの時計メーカーの90〜95%は、調速機(ヒゲゼンマイとテンワ)や脱進機(ガンギ車とアンクル)の供給を同社に依存している。ニヴァロックス・ファー社は、1984年にニヴァロックス社(Nivarox SA)とファブリク・ダソルティマン・レユニ(Fabriques d'Assortiments Réunis)が合併して誕生した。ニヴァロックス社は1933年創業。FARは1932年、ル・ロックルにあった複数の時計部品メーカーが集まって形成された企業グループに与えられた名称。

 ドイツ有数のバネ製造会社であるカール・ハース社が、ヒゲゼンマイ製造最大手のニヴァロックス・ファー社の大規模な生産方式を即座に採り入れることはできないとはいえ、それが関心事であることには変わらない。同様に、H.モーザーの姉妹会社であるスイス企業のプレシジョン・エンジニアリング社も、ニヴァロックス・ファー方式について意識せざるを得ない。モーザーグループ前CEOのDr.ユルゲン・ランゲの弁によると、同社で最終加工までは施さない状態のヒゲゼンマイの年産は、目下のところ約20万個。シャフハウゼン近郊のノイハウゼン工場では、使用対象となるムーブメントのデータを基に図面起こしや試作を繰り返し、他社旧来品とはまったく異なる自社新設計のものも製造。品質別にさまざまな種類が展開されている。

 もっともリーズナブルなものは、耐蝕性に優れ、補正安定性のあるニスパンC(NiSpan-C)製だ。ただし、この性質には耐磁性はない。最上級クラスの製品にはPE3000を使用している。これはニヴァロックス開発者のDr.シュトラウマン方式による、古典的なニヴァロックス-CT合金だ。同社のPE3000製ヒゲゼンマイは、公式クロノメーターにも適しているという。

 これらの製造工程を見ると、小規模とはいえ量産の域にはとうに達している。しかし、もっと規模の大きな生産に至るには、順を追ったステップが必要だ。その方法を経営者であったDr.ランゲは熟知していたが、自社の現在の支払い能力に鑑みると、まだ実現はできないようだ。

 Dr.ランゲは、「大規模生産に必要な、工場内に林立する機械群を揃えるのには、とりわけ経費がかかります」と語る。大規模生産化には、ステップアップの過程で1社もしくは複数の他社と協力関係を結び、経営リスクを分散させることが不可欠なのだ。

 こうした中、共同戦線を張る企業もすでに現れている。ジュラ地方の小都市ポラントリュイにあるアストラル テクノロジー、マニュファクチュール オルロジェル ヴァレ ド ジュウ(MHVJ)、ソプロードの3社から成るトリオはタッグを組んでまだ日は浅いが、いずれもフェスティナ グループに属している。MHVJは、アストラル社製のヒゲゼンマイを使用したテンプおよび脱進機をセット販売でのみ受け付け中だ。聞くところによると、ソプロードの自動巻きキャリバーA10用に開発されたそのセットは高評価に値する品質を持ち、注目すべき量がすでに作られているようだ。それは“ストリュテック(StruTec)”と名付けられ、MHVJ製の自動巻きトゥールビヨンにも搭載されている。フェスティナ グループ外のメーカーからの要望も少なくないというが、彼ら曰く、さらに大規模な量産体制を可能にするテンプのセットは、今のところは保有していないという。しかし、2012年には、量産化に向けての実質的な試験生産が計画されている(『クロノスドイツ版』2012年4月/5月号掲載時点)。複数の試験の実施終了後に、実際にMHVJで5万個、ソプロードでさらに多くの年産が可能かの判断が下される。決定の際は、要望に応じて、スタンダードタイプの組み立て前のパーツのセットも商品化される見込みだ。

 また、アトカルパ社も、この領域にかなり以前から参入している。この会社は同族企業から成るサンド グループと、そこに約25%の出資割合を持つショパールによって、垂直型大量生産方式の時計製造を目標に掲げた構想の下に設立された。2005年以来。アトカルパ社では脱進機一式も製造している。この脱進機は、とりわけヴォーシェ製ムーブメントへの供給が多いが、それ以外のムーブメントを使用しているメーカーの利用も歓迎するとのことだ。

 ニヴァロックス・ファー社の潜在的競合各社が、自社製ヒゲゼンマイ用の素材をどこから調達しているかは、たいていの場合、社外秘になっている。しかしながら、加工に不可欠な針金を扱う販売大手が、ごく少量の単位でも納品に応じているというのが実際のところだ。

ヒゲゼンマイは、中心のヒゲ玉と外端のヒゲ持ちの2カ所で固定される。デリケートさを要する作業だが、シリコン製ヒゲゼンマイは金属製のものに比ぺて、セッティング作業が容易なのも大きな利点だ。

 ネックとなるのはその価格である。ニヴァロックス・ファー社の価格には、現在どこも太刀打ちできない。時計メーカー各社が言うことには、プレシジョン・エンジニアリング社とアトカルパ社の製品は、ニヴァロックス・ファー社製品の10倍もの値段だという。その価格差は、ETAの自動巻きキャリバー2892A2と、そのクローンであるセリタ製キャリバーSW300の開きを明らかに上回るのではないだろうか。ドイツのカール・ハース社製ヒゲゼンマイとの価格差も、似たり寄ったりだろう。さらにリーズナブルなものを追求するとなると、日本製のものの台頭は避けられない。セイコーインスツルは産業規模も大きく。専門知識を持ってヒゲゼンマイを生産している。原材料には、おそらくニスパンCを使用していると思われる。だが、今回は日本初のヒゲゼンマイの話題の前に、再度スイスのムーブメントメーカーに話を戻そう。


ムーブメント製造の足枷

 時計メーカー各社が抱えるジレンマとは、すなわち先の見通しが立たないことにほかならない。セリタCEOのミゲール・ガルシアは、スイス公正取引当局(WEKO)とスウォッチ グループが暫定協定をもって和解し、告知した事柄を極めて遺憾ながら了承せざるを得ないと言う。スウォッチ グループによる2012年のパーツ一式の全供給量は、2010年の95%に止まることになったのだ。

 これはセリタにとっては、急所を突く“ロー・ブロー”とも言うべき痛手である。同社製ムーブメントの年産は、2010年におよそ50万個、2011年には80万個に達している。当初の予定では、2012年には約100万個になるはずであった。ガルシアは、「今、ニヴァロックス・ファー社から供給を受けているパーツ群は、2010年に比べて85%くらいしか入って来ていません。生産全体を大幅に縮小しなくてはならないだけでなく、場合によっては現在240人在籍する従業員の一部を人員整理することになるでしょう」と語った。もはや自社の経営を左右するところまで来ていると分かっているのだ。

渦巻き状に成形されたヒゲゼンマイは、オーブンにかけて焼成される(写真はプレシジョン・エンジニアリング社所有のもの)。

「我々も大量生産のセット製品を利用して、かなり儲けてきました。今回のこのとんでもない決定が下されるまではきちんと回っていたのです。そして否が応でも、2〜3年で状況は変化せざるを得ないでしょう」

 セリタについては、プレシジョン・エンジニアリング社、あるいはドイツのカール・ハース社との提携も考えられるが、その詳細はまだ誰にも明かされていない。セリタの得意先として、近年急速に存在感を高めてきたフレデリック・コンスタントのCEOであるピーター・スタースでさえも、それについてはまだ知らない状況だ。だが、その前にも、フレデリック・コンスタントは、調速脱進機の構成部品に関する十分評価に値する有益な特許を取得している。

 どんなかたちで着地するにせよ、ラ・ショー・ド・フォンからル・ロックルに移動する際に通過するクレ・デュ・ロックルで、灰色の軒を連ねるセリタの向上が見られなくなることはないだろう。


いち早く自衛策を講じたメーカー

 これらのヒゲゼンマイと脱進機パーツ群の製造会社やムーブメントメーカーのほかに、自社でヒゲゼンマイをまかなうことができる時計メーカーも数社存在する。モンブランの子会社ミネルバもその一例だ。ヒゲゼンマイについてのノウハウにはかなりのものがあるザクセンのマニュファクチュール、A.ランゲ&ゾーネでも、過去何年かで自社開発を進めてきた。これは2001年に亡くなったギュンター・ブリュームラインが、同社のトップを務めていたことが幸いしている。IWCとジャガー・ルクルトを生き残らせ、A.ランゲ&ゾーネの復興になくてはならなかったドイツ人のブリュームラインは、ドイツにおけるヒゲゼンマイのスペシャリストであるカール・ハース社から、当時は無用の長物と見なされていた複数の製造機械だけでなく、まだ仕入れ可能だったニヴァロックスの原材料をも獲得していたのだ。純然たる手作業の製品に対して、グラスヒュッテでは安定生産に見通しが立つことを意識すべく、量を調整しつつ製造が行われている。グラスヒュッテ近郊の、人里離れたミューグリッツタールに設けられた分室で、今後生産が軌道に乗ったとしても、せいぜいA.ランゲ&ゾーネの母体であるリシュモン グループ傘下のジャガー・ルクルトなどが得をする程度だろう。しかし、その発展ぶりは、すでに目をみはるところまで来ている。日々生産は進み、それにつれてル・サンティエのジャガー・ルクルト本社でも、急速に自社生産体制が敷かれていくということも、考えられなくはない。

 A.ランゲ&ゾーネと似たような状況で、自社生産を行っているのがロレックスだ。クロノメーター級の時計についてはかなりの生産量を誇り、燦然と輝く存在の同社にふさわしく、ジュネーブで開発された巻きヒゲゼンマイを自社内で製造している。素材の“パラクロム”は、ニオブとジルコニウムの合金で、耐磁性を持ち、耐衝撃性は従来品の10倍の強さだ。もっとも、このヒゲゼンマイは販売対象にはなっていないため、入手するには同社の時計製品を購入するしかない。

 時計産業において、変革期とは大金を投じることにほかならない。2010年に亡くなったスウォッチ グループの創設者、ニコラス・G・ハイエックの大願が実現するには、相応の投資が必要であろう。彼が生前最も渇望していたこと、それは真の意味での競争による時計産業の健全化である。これはムーブメントだけの話に限らず、調速脱進機についても同様だ。そして、その筆頭に上がるのが、ヒゲゼンマイなのである。(文中敬称略)