ミドリフグさんのブログ

(一般に公開)

デッキウォッチの魅力 その12026年03月05日00:43
皆様ごきげんよう。
前回から随分間があいてしまいました…ここ最近仕事が激化して家にはほぼ寝に帰るような日々となってしまいました。
食事を摂るのも息をするのも面倒と思えてしまう程に消耗し、そんな中、残された僅かな体力でもショーケースの時計を眺めているだけで満たされる時計趣味は偉大だと思う今日このごろです(笑)
趣味は他にも色々やっておりますが、家から一歩も出ずとも弄って楽しい、見て楽しい、バラして楽しい趣味は時計くらいなものですね~。

さて、前置きという名の言い訳タイムは程々にして早速本題に参りましょう(笑)
今回ご紹介させていただくのは、そんな極限状態の私に因んで、航海という極限環境で使用された特殊な時計──イギリス海軍のデッキウォッチになります(笑)。
ブランドは当然のことながらZenithとなります。


<デッキウォッチとは① ~航海と時計~>
デッキウォッチとはなんでしょうか。
明確な定義は(多分)ありませんが、大雑把にいうと「航海中に船舶の現在位置を求めるための観測作業に用いられた携行精密時計」となります。
航海中、船の現在位置を正確に知ることは安全な航行に不可欠です。しかし、大洋の上では目印となる陸地がないため、船の位置は天体観測から導き出されてきました。そのうち、現在の経度を知るために不可欠なのが、出発地の正確な時刻を刻み続ける精密時計──そう、みんな大好きマリンクロノメーターです。天体観測から求めた現地時刻と、マリンクロノメーターが示す時刻との時差を計算することで、現在の経度を高精度で求めることができました。


<デッキウォッチとは② ~運用シーン~>
「じゃあ経度測定はマリンクロノメーターでいいんじゃないの?デッキウォッチ要る?」と思われる方も多いかもしれません。マリンクロノメーターは確かに経度を測定する機械でありますが、こちらはいわば基準となる時計(マスター)であり、万一これが狂ってしまったら遭難しかねない、いわば船員と命運を共にする運命共同体といっても過言ではありません。したがって、マリンクロノメーターは最初の出港時に時刻を合わせたら船の奥深くに安置され、以後触ったり移動させることはありません。
実際の位置測定は当然ながら船の甲板で行われるわけですが、そのためにマリンクロノメーターを都度甲板まで持ち運ぶことなどは安全上、現実的ではないため、クロノメーターの時刻を観測現場へ持ち出すための携行精密時計が必要になります。この「実務用時計」こそがデッキウォッチなのです。したがって、デッキウォッチはマリンクロノメーターと同等の精度を要求された訳ではないものの、観測用途に十分な安定性が求められたのです。
こうしてマリンクロノメーターに代わって「気軽に」持ち運びできたデッキウォッチはその利便性から、経度測定の他に水路測量などにも使用されてきました。


<デッキウォッチの特徴と魅力>
普通の時計とは大きく構造が異なるマリンクロノメーターと違い、デッキウォッチは一般的な懐中時計と構造に大きな差はありません。また、どうしてもポジションがマリンクロノメーターと被りその補助的な立ち位置になってしまう事、そして何よりも、マリンクロノメーター誕生の歴史があまりにもドラマティックである事(経度問題)、これらの理由からコレクターの間ではマリンクロノメーターと比べるとどうしても知名度が低くならざるを得ず、人気も控えめです。まぁおかげでその由緒正しさにも関わらず比較的安く買えるのですが(笑)。しかし、

・準クロノメーター級の高精度ムーブメント(基本的にハック機能無し、センターセコンド)
・0.5秒刻みでありながら高い視認性のエナメル文字盤
・ケースを開けずとも時刻が確認できる専用の木箱

といった、実用性を重視した質実剛健な作りでありながらもどこかエレガントな雰囲気が漂うところ、そして、実務のための機械であるがゆえに当時の人達にとってはマリンクロノメーターよりも馴染みのある機械であり、実用されてきた実績・痕跡があるという点がマリンクロノメーターにも、一般的な懐中時計にも無い魅力と言えるのではないでしょうか。


<英国軍とブロードアロー>
さて、この時計を見て真っ先に目に止まるのはダイヤル上部のシリアル番号とともに印字された「↑」マークではないでしょうか?
ミリタリーや英国時計がお好きな方は既にご存じかと思いますが、この矢印はブロードアローといい、英国政府の所有物であることを示す紋章であります。そのルーツは古く、1698年、議会法により軍用品を識別する公式な印として、当時の兵器総監であったロムニー伯ヘンリー・シドニー(1641-1704)が軍の物資を識別するために使っていたこの紋章に制定されました。


<バックヤードの憂鬱>
以来、英国政府が所有する資産にこの紋章が使われるようになったのですが、実態としては現場の急な調達といったゴタゴタを理由に、無数の物資への登録作業が追いつかず、常に多くの後追い作業が行われていたと言われています。特に時計は、軍の公式記録や仕様書は必ずしも現物の供給時期と一致しておらず、実際には記録に現れるより以前から刻印付き個体が存在する場合もあるそうです。
さらに、英国軍は陸・海・空軍それぞれが独立した調達制度を持っていたため、同じ軍用時計であっても刻印体系は統一されておらず、ブロードアローが存在しない例も少なくないそうです。
いや~勤め人としては聞いてるだけで胃がキリキリするような状況ですね(笑)


<この個体について① ~文字盤~>
さて、物凄くざっくりと英国海軍のデッキウォッチにまつわる背景知識をご説明させていただいたところでこの個体について見ていきましょう。実はもう少しご説明すべきこともあるのですが、すべてを一つの記事にまとめてしまうと文量が凄まじいことになってしまうため、現状でも差し支えはないと判断し、このまま突っ切らせていただきます(笑)。細かい点は次回の記事に譲りましょう。

文字盤のシリアルは3664。太く印字されたアラビア数字と、ひときわ長く印字された0.5秒刻みのインデックス、そして精密なセンターセコンド針が他の時計には無い実用性とエレガントさの融合を見事に果たしておりなんとも美しいですね(写真2)。実はこの文字盤には複数バージョンが存在し、このタイプは最も初期のタイプとなります。


<この個体について② ~ケース・ムーブメント~>
ニッケル製のケースの表裏のスクリュー蓋にはコインエッジ処理が施されており、手が滑るような状態でも蓋をあけやすくなっております。エレガントさと実用性が兼ね備わった素晴らしいケースとなります(写真2)

ムーブメントはシリアルナンバー3233664であり、推定1938年製。
受け板にはブロードアローが刻印されており、中身もしっかり英国所有の資産であったことが伺えます(写真3)
受け板の4番車の同軸にもう一つ歯車を置き、中央にある専用のブリッジに設置されたセンターセコンド用の歯車に繋げてあげることで4番車の回転をセンターセコンドに出力する仕組みです。
緩急針はこの時代Zenithがよく採用していた独自の機構、「精密調整用緩急針」が採用されており、ヒゲゼンマイは当然ながらブレゲ巻き上げヒゲとなっております。ちょっとスワンネックに似ていますね。


<この個体について③ ~木箱のプレート~>
さて次は木箱にスポットを当ててみましょう(写真1)
時計上部のスペースには英国軍の管理用プレートが付属しており、「MINISTRY OF DEFENCE HYDROGRAPHIC DEPT. WATCH DECK(防衛省水路部 デッキウォッチ)」と書かれております。また、リファレンスナンバーとシリアルナンバーが一緒に書かれており、シリアルは3664で時計本体と一致していることから、この個体は奇跡的にオリジナルの組み合わせであることがわかります。ブロードアローの解説でも述べたように管理体制がかなりゴタついていたことに加えて軍事用であることからこのプレートが欠落している個体も当然ながら存在します。ちなみに、前々回の記事でもご紹介させていただきましたコンラート・クニリム氏の著書でも本プレートが欠落した個体も収録されています。
このめぐり合わせ、時計の神に感謝ですね~。
本項で出てきた防衛省水路部(通称:英国水路部)については次回の記事でご紹介できたらなと思います。


<この個体について④ ~校正記録~>
蓋の裏面の、「Issued from CHRONOMETER SECTION HYDROGRAPHIC DEPARTMENT MINISTRY OF DEFENCE(防衛省水路部 計器課)」・「HERSTMONCEUX CASTLE HAILSHAM, SUSSEX(ハーストモンスー城)」と書かれた紙には「-9MAY1971」と記入されており、1971年5月9日に英国防衛省の計器課によって校正が行われたことがわかります(写真1)。これは1938年の製造から実に30年ほどの期間を軍で現役であり続けた証拠であり、途中クォーツ時計誕生を経てもなお使われ続けてきたことから、いかに軍から信頼されてきたかが伺えますね。
ちなみにですがこのハーストモンスー城こそがかの有名なグリニッジ天文台の拠点であったりします。戦後、海軍省によって売却された後に移転してきたグリニッジ天文台の拠点として使用され、以後クロノメーター検定などが行われてきました。


<次回予告>
気付けば時計一つ紹介するのにかなりの文量となってしまいました…ここまで駄文を読んでいただいた方には感謝しかありません(泣)
さて、文字盤の項目でもチラッとご説明させていただきましたが、実は英国海軍のデッキウォッチは時期によって文字盤のバージョンが違うんですよね。今回はその初期型をご紹介させていただきました。ということで次回は後期型の英国海軍デッキウォッチとともに英国水路部や英国軍の刻印(ブロードアローでない)の意味などについてご紹介させていただきたいと思います。

この記事で少しでもデッキウォッチいいなと思った方はぜひ次も読んでやってください~。
  • zenith

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本文
写真1
写真2
写真3
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