【新連載】松山猛の台湾発見 第1回 <茶の国に呼ばれて>

LIFE松山猛の台湾発見
2018.03.17
沖縄県の南西に位置し、日本から一番近い亜熱帯および熱帯の島である台湾は、国土の5割5分までを山地が占める。その豊かな気候が香り高く味わい深い多種類の茶を生み出してきた。その中でも茶の産地として最も名高い場所が、台湾中部に位置する凍頂山だ。

 そして第三の理由は、かなり切実なものであった。常にきらしたことのなかった、凍頂烏龍茶が、もう残り少なくなっていて、どうしても手に入れたいと思っていたのだ。
 我が家の茶の消費量は、かなりなもので、月平均600グラムは下るまい。およそ1斤の大袋がなくなる。しかも烏龍茶だけではなく、珈琲もかなり消費したうえでの分量だから、少人数の家族の割には多い。我が家に来る人々にも、烏龍茶人気は高くなってきたから、これからはますます、茶葉を切らさぬように心掛けねばならない。
 日本で出廻っている品は、ほとんど良くない。色ばかりで香りや風味が劣悪で、あれでは烏龍茶の名が泣くのだ。
 凍頂とは、文字通り、凍えつくような気候の高地でなくてはならない。そしてその語の源は、南投県の凍頂山に発するのだ。
 台湾の土地の5割5分までが山地であることは、地図を見ればわかる。しかもかなりな高山が、中央にはひしめいているのだ。凍頂山はさほどの高山ではないが、1年中霧におおわれた山で、その厳しい気候の中から、良質の茶が生まれるという。
 凍頂山山麓の鹿谷がその主要産地で、僕が今から5年前、はじめて義父にいただいたのが、この鹿谷産であった。
 国立故宮博物院刊の茶の本『三希堂茶話』によると「茶の葉は緑色を帯びてねじ曲り、金色あるいは黄褐色を呈する、香ばしさとほのかな甘さがあり、南投県鹿谷郷に産する。湯温は95度」とある。湯温は、日本の緑茶に比べると、はるかに高い。同じ先祖の木でありながらも、中国と日本の茶は、今では全く別の物になったのかも知れない。ともあれ茶の補給という大きな目的をもって、我ら一家は、羽田から中華航空の客となったのだった。

松山猛プロフィール

1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、マガジンハウスの『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
1970年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。