高精度の象徴、クロノメーターの新たな潮流

FEATURE本誌記事
2020.09.27

台頭する新たなる精度基準

現在クロノメーターを検定できる公式機関は、C.O.S.C.以外にもいくつか存在する。またクォリティシールの内容に、精度保証を盛り込む規定も珍しくはなくなってきた。彼らと歩みを共にする者たちが求めるものは、C.O.S.C.とは異なった付加価値であろう。クロノメーターの内実が平均化してしまった現在、新たな“絶対的価値”が求められようとしている。

ドイツクロノメーター認定局(グラスヒュッテ天文台)がウィッチと共同で開発した、恒温装置付きの25連タイムグラファー。ISO3159の基準に則り、温度や保管姿勢を変えながら、15日間の測定プログラムを自動で行う。人の手が行うのは巻き上げ動作のみ。クロノメーター検定の費用は、1個約130ユーロ。証明書を発行する場合は別途20ユーロがかかる。

 C.O.S.C.によるクロノメーター認定が、空前の伸び率を見せる一方で、C.O.S.C.とは異なった価値基準を提示する新勢力の台頭も著しい。とはいえC.O.S.C.の基準そのものが、ISOによって標準化されている以上、ある程度の類似を見せるのも事実だろう。

 現在、C.O.S.C.と最も強い歩み寄りを見せるのが、2012年6月から本格始動した新生ジュネーブ・シールである。もっとも法令自体は10年に、ジュネーブ州の技術規格法25条として発布されており、11年には一般にも公表されている(2年の誤差は改正法施行への実施猶予期間)。本来はジュネーブ州の原産地統制呼称に由来し、一般的には美観と製法に重点を置いたクォリティシールとして知られるとおり、旧24条には精度基準が一切含まれていなかった。しかし慣例上、ジュネーブ・シールを取得したムーブメントであれば、それだけで〝クロノメーター〞を名乗った個体もあったとされ、少なくとも1957年以前は完全なフリーパスであった。C.O.S.C.やISOによって〝クロノメーター〞が定義されて以降も、この点だけは実に曖昧なままだったのだ。

ヴェンペの自社製ムーブメント2種。トノーシェイプの「Cal.CW1」ではノモス、ラウンドシェイプの「Cal.CW3」にはMHVJなどが開発に参加している。なおドイツクロノメーターが評価基準とするのは「歩度」(アンクルの発する刻音のズレをベースに、24時間分の誤差として換算したもの)。測定時の巻き上げ状態のまま、24時間分の誤差に換算するため、実測値である「日差」とは厳密には値が異なる場合もある。

ヴェンペで生産されるツァイトマイスター。黒字がケーシング完了時までに用いられる管理ナンバー。クロノメーター検定用に割り当てられた、新たな管理ナンバーが赤字で書き込まれている。

 新生ジュネーブ・シールを管理・運営する非営利団体「タイムラボ」は06年に設立。事務局はC.O.S.C.のジュネーブ支局と同一敷地内にあり、設立当初から、両者は以降の関係強化を模索してきた。ジュネーブ・シールを取得する個体は、事前にC.O.S.C.による認定を受けることを強く推奨され、実際にC.O.S.C.認定数がやや落ち込んだ2010年でも、3カ所ある検定局のうち、ジュネーブ支局の伸び率は他を圧倒している(ジュネーブ支局/35.6%増、ル・ロックル支局/19.8%増、ビエンヌ支局/12.3%減)。クォーツムーブメントのクロノメーター検定を行っているのがジュネーブ支局のみという事情を差し引いても、この伸び率を裏から支えたものが、タイムラボとのリレーションシップにあることは想像に難くない。一例を挙げるなら、現在100%ジュネーブ・シール認定を掲げるロジェ・デュブイは、クロノメーター検定の持ち込み先を、以前のブザンソン天文台から、C.O.S.C.ジュネーブ支局へと変更している。

 なお新生ジュネーブ・シールには独自の精度基準も設けられており、C.O.S.C.認定後のムーブメントでもダブルチェックが課せられる。こちらはケーシングされた状態での検査項目に該当し、タイムラボの認定を受けた検査装置を用いて分針の動きを撮影。7日間での誤差を1分以内と定めている。秒針を持たないムーブメントでは、その性質上、C.O.S.C.での検定を受けられないが、この方法でなら全数検査が可能となる。ケーシング後の検査項目としては、精度検査の他に、防水検査とシクロテストの全数検査が課せられるが、これらは検定局の管轄ではなく、各メーカー内で行うことが新たに認められている。

 一方、フランスのクロノメーター検定機関として知られたブザンソン天文台は、その規模を縮小させているようだ。かつてブザンソンで検定を多く受けていたアラン・シルベスタインは既になく、ロジェ・デュブイはC.O.S.C.に主力をシフト。ウルバン・ヤーゲンセンなどの高級スモールメゾンが、誇らしげにその名を掲げているに留まっている。ブザンソンクロノメーターの実際の検定は、フランス工業省管轄の検査機関である「セテオール」( CETEHOR=CENTRE TECHNIQUEDE L’ INDUSTRIE HORLOGERE /時計技術センター)が受け持つが、ここのクロノメーター検定に対するキャパシティが、年間1000本程度しかないらしい。C.O.S.C.の認定数が160万本を突破したことを考えると、とても比較になる数字ではない。セテオールは時計技術の研究開発の他に、輸出検査なども担当しているが、こちらは個別の検査手数料をとらずに税金で運営されている。クロノメーター検定にかかる個別費用は不明だが、こうした資金的な体制がキャパシティを狭めている可能性は十分に考えられよう。

新生ジュネーブ・シールの制定後、最も早い時期に新規開発されたヴァシュロン・コンスタンタンの14日巻きトゥールビヨン「Cal.2260」。従来からのムーブメント製法規定に加え、ケーシングされた状態での精度検査、防水検査、シクロテストなどの項目が追加された。ケーシング後の検査は検定局の管轄ではなく、各メーカーで行うことが許されている。

新生ジュネーブ・シールの管理・運営を行う「タイムラボ」では、C.O.S.C.とジュネーブ・シールの連動を推奨。ケーシング後の精度検査以前に、ムーブメント単体をC.O.S.C.に持ち込む。ただしC.O.S.C.取得は絶対条件ではない。

 他方、スイス、フランスとともに、B.O.設立時のクロノメーターコミッションを形成したドイツでは、独自のクロノメーター検定制度が復権しつつある。第2次世界大戦の敗戦国となったドイツでは、戦後マリンクロノメーターを製造することは軍需産業と見なされ、その検定機関であったグラスヒュッテ天文台も荒廃するに任せていた。しかし、06年にヴェンペ所有となって以降、急速な復興を遂げ、ここにドイツクロノメーター検定の本拠地が置かれることになった。ISO、及びDIN(ドイツ工業規格)に準拠して06年にスタートした検定は、08年にILAC(国際試験所認定機構)の正式認可を経て、国際的に通用する規格となった。ISO3159に準拠するため、評価基準はC.O.S.C.と同様だが、両者では、検査方法が大きく異なっている。C.O.S.C.ではケーシング前のムーブメントに、仮の文字盤、針、巻き芯を取り付けて「日差」を基準とする(具体的には仮文字盤を撮影し、その24時間後に、前日との秒針位置の差を検査基準とする)。一方、ドイツクロノメーターでは、実際の製品と同様にケーシングされた状態で検査が行われ、検定の基準となるのはタイムグラファーで計測される「歩度」だ。現在の平均検査数は年間約6000本で、これまでに約2万6000本(12年末時点)がドイツクロノメーターとして認定されている。ヴェンペ、ノモスなどが主だが、今年からグラスヒュッテ・オリジナルもドイツクロノメーターを取得する動きを見せている。なお検定局はヴェンペの天文台の敷地内にあるが、実際の検定はPTB(国立物理標準研究所)やLMET(テューリンゲン州度量衡管理局)、SLME(ザクセン州度量衡管理局)など、いくつかの行政機関から派遣されたスタッフに任されている点も、フランスの場合と同様だ。スイスの場合でもそうだが、とかく〝公的機関〞の運営は、組織が複雑になりがちなものである。

 レギュレーション(調速)だけに限って言えば、現代のムーブメントがISO3159の精度基準を満たさないとは考えにくい。2010年のデータを参照すると、133万1868個のムーブメントがC.O.S.C.に持ち込まれ、127万6714個が認定を受けている。つまり5万5154個が認定から洩れた計算だが、不良率は約0.04%に過ぎず、そのほとんどが巻き上げ不良など、調速以外の要因にあると聞く。検定の本質がいくら相対的評価にあるとはいえ、これではクロノメーターを「絶対的な付加価値」とするには無理が生じてくる。

 こうした背景を受けてか、C.O.S.C.に新しい評価基準を設けようとする動きも水面下に見え始めた。一例が、タグ・ホイヤーのサイエンス&エンジニアリング担当バイスプレジデント、ギィ・セモンが、セテオールと共同研究を始めた積算計の評価基準だ。現在のC.O.S.C.には、クロノグラフを評価する規定が実質的には存在しない。クロノグラフなどの付加機構がある場合には、測定10日目(23℃、文字盤上の平姿勢)に24時間のランニングを行うとあるが、これもあくまで通常輪列にかかる負荷を見るだけに過ぎず、積算計そのものを評価しているわけではない。タグ・ホイヤーでは、積算専用の独立輪列を備えた高振動クロノグラフを相次いで製品化しているが、その延長線上にあるものが、積算計の正当な精度検定なのである。実現を望みたい。

 相対評価から絶対評価への再転換は、かつての天文台コンテストを模した「国際クロノメーターコンテスト」でも試みられている。09年の初回はトゥールビヨン勢が圧勝し、第2回目の11年では、トゥールビヨン部門と通常部門にトロフィーが分けられた。初回を制したジャガー・ルクルトの例からも分かるように、他を圧するという行為自体が、良い意味で平均化してしまった現代の〝クロノメーター〞に、新たな付加価値を生む。第3回目のクロノメーターコンテストは、2013年に開催された。

積算専用の独立輪列を備えた、超ハイビートのクロノグラフを相次いで開発するタグ・ホイヤー。上は1/1000秒計測を可能とした「マイクロタイマー フライング1000」の脱進機部分で、振動数は360万振動/時。下は1/100秒計測だが、テンワとヒゲゼンマイを廃し、磁性振動子に置き換えた「カレラ マイクロペンデュラム」の脱進機。共に高速運針による精密計測が可能だが、それを保証する精度規定はまだ存在していない。開発者のギィ・セモンが長期的に目論むプロジェクトは、積算計のC.O.S.C.認定基準の確立。そのための研究がセテオールと共同で進められているようだ。