シチズンの原点 立太子を祝したからくり時計

FEATURE本誌記事
2022.06.08

 1916年、皇室と東京市で御飾時計献上が締結された。皇室側のやり取りをまとめたのは東宮大夫、濱尾新だ。濱尾は欧州差遣により美術教育調査を行い、東京美術学校(現・東京藝術大学)を創立したひとりでもある。17年1月に東京美術学校へ御飾時計製作が正式に依頼され、プロジェクトは始動した。全製作監督を務めたのは同学長の山本正三郎だ。山本は金属美術研究のための渡米経験者で、御飾時計では自身も金属装飾を製作した。高度な理想形をまとめ上げ、機械を考案設計したのは府立工藝学校教員の植田峯三郎だ。

 しかしプロジェクトは前途多難であった。当時は第1次世界大戦下。材料の輸入は厳しく予算は倍以上に膨らみ、またスペイン風邪も流行して関係者の多くが罹患した。何より複雑な機械の実動は困難を極めた。山本による経過報告書には外国製品を改造する当初計画を白紙とし、ピン1本に至るまですべて新規製作に切り替えたこと、植田が神経衰弱を患ったことなどが吐露されている。

立太子奉祝御飾時計

背面斜め方向のクランクシャフトが目を引く。これは回転運動を往復運動に換え、童舞人形を動かすための装置。動力伝達の効率性や公差よりも美的観点を追求した設計思想がうかがえる。青焼きネジや、金色の球体もしくは菊の紋章のカウンターウェイトにも趣向が凝らされている。

 この窮地に現れたのが尚工舎の山﨑龜吉だった。山﨑は19年に製作の相談を受け、翌年に尚工舎で製作を引き継いだ。そして機械と筐体のすり合わせ、部品の作り直し、動力の見直しを行い、21年に見事完成させたのである。約5年分の経過報告を、山本は次の一文で締めくくった。「山﨑龜吉氏の特に厚き功績と関係者諸氏の功労に対し深く感謝の意を表す」。山﨑はまた、植田を尚工舎へと迎え入れた。

 山﨑が尚工舎を設立したのは1918年、つまりプロジェクト参加のわずか1年前のことだった。この偉績は山﨑、そして技術者たちに活力を与えたことだろう。技術立社として今や世界に冠たるブランドへと成長を遂げたシチズン。その原点に、御飾時計が燦然と輝いている。

立太子奉祝御飾時計

右側側面にはふいごや鳩に向かいプーリーに沿う炭素工具鋼鋼材のチェーンが見える。1コマの長さはわずか3.175mm、幅は1.34mm。全体の潤滑油にはシチズン製「AO-オイル」を使用。開発者の赤尾祐司が油種選択をした。
立太子奉祝御飾時計

クランクシャフトの後ろに見えるのが、形の異なる2枚が重ねられた偏心カム。童舞人形が毎15、30、45分は2体同時に、毎正時では交互に腕を上げる2種の動きを規制する。偏心距離のばらつきが不具合を引き起こすため、牛山天晴らは3Dプリンターを駆使して最適値を模索した。カムのツールマーク部分は最終的に梨地仕上げに。

立太子奉祝御飾時計

童舞人形2体を舞台上で移動させる動力はまず、クランクシャフトで機械装置上方まで持ち上げられ、弓形カムで往復運動に変換されたのち水平の屈伸運動に変換される。その終点に童舞人形が設置され、スライドレールに取り付けられる。



Contact info: シチズンお客様時計相談室 Tel.0120-78-4807


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