時計のマニュファクチュール都市、ラ・ショー・ド・フォンの発展の歴史

FEATURE本誌記事
2021.02.14

革命の牽引力となった時計師たち

 カリヨン時計の斜め向かいの、グルニエ通りの反対側はマネージュ通りだ。ここの19番地に歴史的建造物がある。このアンシャン・マネージュという名の建物は、最初は騎馬学校として19世紀に建てられた。しかし、この辺りはおそらく1860年代くらいまでには労働者街の一角に変わっている。1970年には駐車場化する計画もあったが、建物はすんでのところで取り壊しを免れている。市内の多くの建物同様、ここも外から見るより内側から見たほうが明らかに面白みのある造りだ。オーソドックスな設計ではなく、中庭のほかに上の階へと続くふたつの室外階段があり、ユーゲントシュティール様式の装飾は、目をみはる素晴らしさだ。かつて1階には、洗練された複雑時計の製作で注目を浴びるロベール・グルーベルとステファン・フォーシィがオフィスを構えていた(グルーベル・フォーシィは2009年に新社屋に移転)。当時、この建物は彼らのイメージを印象付ける格好の額縁でもあった。

 グルニエ通りをさらに北へと少し進んだところが中心街だ。ここには歴史ある他の都市と同じように、市庁舎がそびえている。1848年3月1日、ヌーシャテル州が蜂起によりプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の支配下から共和政を勝ち取った時は、ここで宣告が行われている。民衆を革命へと駆り立てる牽引力となったのは、ラ・ショー・ド・フォンの時計製造業者たちだった。その中にはジラール・ペルゴの創始者コンスタン・ジラールも含まれる。ピエール‐イブ・ドンゼの著作『ラ・ショー・ド・フォン時計産業の守護者たち』によると、彼らが革命を支持したのは、おおむね商業的理由からであったという。時計製造業者たちは、いつの時代もこの都市で最大の影響力を持っていたのである。というのも、当時は住民の3分の1に相当する約4000人が時計産業に従事していたからだ。現在も3月1日は同市をはじめ、ヌーシャテル州の市町村では共和制成立記念日として祝う日となっている(訳者注:プロイセン王国からの完全独立は1856年)。

1852年、弟とともに時計会社のジラール社を設立したコンスタン・ジラール。当時、ドイツ・プロイセン王国の飛び領土だった現在のヌーシャテル州を自治共和制にすべく、蜂起を呼び起こすきっかけとなったひとりとされている。

ジラール・ペルゴのアイコンとも言うべきスリーブリッジトゥールビヨン。文字盤にブランド名と“ショー・ド・フォン”の表記を見ることができる。

 ところで、この革命からさかのぼること半世紀の1794年、わずか数ブロックしかないシャウプラッツ地区で、市全体を揺るがす劇的な事件があった。ダニエル・グリサールなる人物の家で、保管されていた重量150ポンドほどの火薬が隣室の暖炉から引火し、大爆発を起こしたのだ。火の手は周辺の多くのブロックにまで広がり、市の中心地区一帯はすべてが失われ灰燼に帰してしまった。当時、ラ・ショー・ド・フォンの人口はすでに5000人近く。もはや単なる田舎村ではなかった。ラウール・コップの著書『ラ・ショー・ド・フォンの歴史』には、被害の規模が記録されている。170世帯以上が住んでいた50から60軒の家屋が全焼、手の込んだ造りの他の建物も失われ、市内で一番大きな教会さえも焼失の憂き目に遭った。しかし、これだけの大火でありながら、死者は皆無だったという。

 そして、時計産業界も壊滅的ダメージを被ったというわけではなかったようで、痛手はそれほど長くは引きずっていない。有識者の中には、この時の復興の早さは、各々小規模ながらも成長を続ける時計産業のパワーによるところが大きいという見解を持つ者もいる(ちなみに事故の44年前の1750年の時点では、時計産業従事者は人口の10分の1ほどに過ぎなかった)。事故後、時計師たちは会社設立に執心し、雇用を生み出していった。復興を促進するにあたって、自分たちができることを行ったわけである。また、時計製造そのものが、都市再建の手法や手段にも影響を与えた。それまでくねくねと曲がり、見通しの良くなかった通りをそのまま再建するのではなく、幅が広くまっすぐな道に整備して、家の中の日当たりがよくなるように変えていった(時計の組み立てにとって、より良い環境であった)。これによって、冬は雪かきが楽になり、外出に余分な時間を取られることがなくなったという。ラ・ショー・ド・フォンは海抜約1000メートルに位置し、現在でもヨーロッパにおける最も高度の高い豪雪都市のひとつだ。エタブリサージュ・システムでは、時計の各パーツや半完成品のエボーシュは、各人の作業が終わると次の工程を請け負う作業者に回されるため、街の中を頻繁に行き来する必要があった。そして、各建物との間を広く取ることは、火災時の延焼を避ける目的でもあったようだ。

碁盤の目に整った街並み

 復興に際して住宅が次々と新築されて住環境が改善され、街の景観も整っていったため、ラ・ショー・ド・フォンの人口は歴史的大火から10年ほどで急激に増加している。1835年、エンジニアのシャルル‐アンリ・ジュノーは、さらなる整備を進めるべく都市計画を発案。この計画の要は、建物の敷地の区画を正方形にパターン化することであった。この都市計画手法は、後にアメリカでも多く取り入れられている。住民は「街は〝アン・ダミエ〞(en damier=市松模様)になっている」と言う。つまり、碁盤の目状というわけだ。例えば、レオポルド・ロベール大通りを歩いて、道の終わりまで来ると、その先は別の区画であることがすぐに分かる。これは道がまっすぐで幅が広いからなのだが、いかにもヨーロッパ的な街並みからはかけ離れていると言えるだろう。はっきりとヨーロッパらしくない印象を与えるのは、都市が直角で構成されている点だ。レオポルド・ロベール大通りには、市内で最もモダンな現代建築トゥール・エスパシテがあるが、そこまでの道のりもまっすぐ行って曲がるの繰り返しなので、車椅子でも到達しやすい。最上階からは各区画が正方形になった整然とした街並みが一望でき、見事な眺めを楽しめるようになっている。

 ラ・ショー・ド・フォンに芽吹き、市の基幹産業にまで発展した時計産業の急成長は、19世紀いっぱい続いた。19世紀末期もなおエタブリサージュ・システムがメインに機能し、多くの零細企業が市内のエタブリスール(非マニュファクチュールメーカー)にパーツや労働力を提供していた。このシステムは世界的に有名なものとなっていった。1867年、カール・マルクスは『資本論』の中で、ラ・ショー・ド・フォンそのものを「唯一の時計マニュファクチュール」と記している。作業工程が完全に統制されているのは、自身が掲げた〝ヘテロゲネ・マニュファクチュア(異種構成による一貫生産体制)〞思想の完璧なる手本として評している。エタブリサージュ・システムが最盛期を迎えたのは、1840年頃から1880年くらいまでであった。この期間は、機械式時計1個を完成させるために、労働者が150人を下回ることはなかったという。その間、国家経済も時計製造との結び付きを強めていった。