時計愛好家の生活 F.H.さん「腕時計の魅力にとらわれ、底なし沼から抜け出せなくなってしまったわけです」

FEATURE本誌記事
2024.03.11

時計蒐集の目的や楽しみ方は人それぞれだ。知的探求の対象として腕時計に情熱を注ぐようになったF.H.さんは、やがて積み上げた見識を家族に使うようになる。彼らに祝い事が訪れるたび、その瞬間を飾るにふさわしい腕時計を贈ってきた。時計とともに絆を深めてきたFさん一家。やがて大人になった息子が初めて自分に選んだのは、若き日の父が選んだものと同じ腕時計だった。Fさんを8年ぶりに訪ね、そのコレクションが映す豊かな家族の歩みをたどった。

F.H.さん
関西在住の開業医。時計蒐集歴は30年近い。子供時代にストップウォッチを触っていた経験からクロノグラフを中心に嗜むようになる。初めて手に入れた腕時計は「パシャ 38mm クロノグラフ」。時計は広範な知識から選び抜き、大切に迎える。「新品で手に入れる。そして絶対に手放さない」というポリシーを貫いている。
奥田高文:写真
Photographs by Takafumi Okuda
髙井智世:取材・文
Text by Tomoyo Takai
Edited by Yukiya Suzuki (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2023年3月号掲載記事]


「時計を買うタイミングは人生の節目。だから手放すことはありません」

1815 クロノグラフ、クロノグラフ Ref.5170

2022年、結婚30年を迎えたF.H.さんと奥様。ふたりの息子も無事、医師となった。A.ランゲ&ゾーネの「1815 クロノグラフ」、パテック フィリップの「クロノグラフ Ref.5170」は医師家系として3代続くFさん親子を象徴するにふさわしい。脈拍数を測るパルスメーターと、12時間積算計を省いたサブダイアルを備える典型的な“ドクターズクロノ”だ。父子でこの良さを語り合う日が訪れることを、Fさんは密やかに願っている。

「時計は思い出のために買うものであり、そして思い出とは残していくものでしょう」。『クロノス日本版』2015年3月号(第57号)の本特集において、自身の時計哲学をこう述べた人物が、F.H.さんだ。時計に対して広範な知識を持ち、時計愛好家の鑑のような思想を持つFさんは、本誌編集長と旧知の仲でもある。8年の時を経て、〝その後〞を追わせていただく機会を得た。

 Fさんは父親の開業した医院を継ぐ医師である。その立ち上げから携わり、経営を軌道に乗せた頃から腕時計を愛好するようになった。やがて知力と財力を投じ、クロノグラフを中心とした良質なコレクションを築き上げていく。蓄積された見識は家族のためにも用いられ、節目ごとにふさわしい腕時計を贈り、家族の歴史に花を添えてきた。典型的な〝ドクターズクロノ〞のデザインを備えたA.ランゲ&ゾーネの「1815 クロノグラフ」と、パテック フィリップの「クロノグラフ Ref. 5170」はその象徴だ。父親の傘寿を祝して前者は父へ贈り、後者は自身のものとした。これらはいずれ、当時医学生だったふたりの息子へ託す夢もある。

ルミノール クロノ、ルミノール マリーナ ミリターレ アメリゴ・ヴェスプッチ

かつてFさんの時計趣味を加速させたパネライの2本。(左)エル・プリメロベースのCal.400Zを搭載した「ルミノール クロノ」は、2000年の注文から約1年半後に手元に届いた。Fさんが手にしたのはいわゆる“D番”で、インデックスが0.5分刻みで入っている。(右)手巻き式の「ルミノール マリーナ ミリターレ アメリゴ・ヴェスプッチ」は、ケースバックに世界限定300本のシリアルナンバーと、帆船「アメリゴ・ヴェスプッチ号」の姿がエングレービングされている

 思いありきで時計を集めてきたFさん。「買った時計は絶対に手放さない」と言い切るスタンスは一貫して変わらない。だからFさんのポートフォリオを見れば、時計人生をそのままたどることができる。

 働き盛りの30代後半、カルティエから腕時計の世界へ入り始めたFさんを、さらなる深みへと誘ったのはパネライだった。2000年発表の、まだエル・プリメロを載せていた「ルミノール クロノ」に心を奪われたのである。しかしようやく取れた予約は約1年半も先のものだった。その時間が当時のFさんにどれほど長く感じられたかは察するに余りある。別のパネライで心を落ち着かせようと考えたFさんが手に入れたのは、「ルミノール マリーナ ミリターレ アメリゴ・ヴェスプッチ」だった。今やコレクターズアイテムとなった稀少モデルである。この2本の選択は、Fさんが当初からいかに鑑識眼を持ち合わせていたかを裏付けるものだろう。しかしFさんはこう話す。

「この時期に最も時計雑誌を購入して読みふけり、その結果、腕時計の魅力にとらわれ、底なし沼から抜け出せなくなってしまったわけです」

マユ、トリック オートマチック、オクタ・パワーリザーブ

神戸の老舗時計宝飾店カミネの社長、上根亨氏の助言のもと購入した独立系ブランドの3本。H.モーザーが日本に上陸して間もなく手にしたのは「マユ」。初期のパルミジャーニ・フルリエからはダブルゴドロンのベゼルが特徴的なプラチナ製の「トリック オートマチック」を手にした。F.P.ジュルヌでは「オクタ・パワーリザーブ」を購入。Fさんは「オーパス1」の頃からフランソワ-ポール・ジュルヌに注目し、南青山のブティックには開設当初から足を運んでいた。

 横溢する知的好奇心を受け止めたのが、神戸の老舗時計宝飾店カミネの社長、上根亨氏だった。上根氏は独立系ブランドの日本導入を他に先駆けて推進してきたひとりでもある。この出会いにより、Fさんの時計人生は広がっていく。コレクションは多彩になり、顧客向けセミナーではブランドやユーザーと親交も深めた。Fさんはこう振り返る。

「F.P. ジュルヌ、パルミジャーニ・フルリエ、H.モーザー。カミネさんで取り扱いが始まった頃に購入したブランドです。当時いずれも知名度は低く、将来性も定かではなかった。同時期に興り、そしてなくなった独立ブランドはたくさんあります。末永くメンテナンスが可能なのかという心配もありました。でも、3ブランドとも非常に成長しました」

 いずれも今や揺るぎない地位を確立したブランドばかりだ。上根氏の慧眼に信頼を寄せ、Fさんは以降ほぼすべての腕時計をカミネで揃えるようになった。

カルティエ トーチュ パワーリザーブ、ランゲ1、ルミノール クロノ

Fさんと父親、息子のYさん3人の、各時計人生における原点的な腕時計。全員がカミネで購入しており、店とも親子3代にわたる付き合いだ。Fさんはカルティエ「CPCP」コレクションより世界限定150本の「カルティエ トーチュ パワーリザーブ」を購入。A.ランゲ&ゾーネ「ランゲ1」はFさんの父親がカミネ先代社長時代に購入したピンクゴールドモデルだ。「この時代のランゲのピンクゴールドは赤過ぎなくて良い」と貴金属に厳しいFさんも絶賛。Yさんは父親を魅了したパネライ「ルミノール クロノ」の後継モデルを選んだ。

 Fさんと上根氏の親交は、Fさんの勧めで時計を愛好し始めた父親と、カミネの先代社長にまでつながった。それを示すのが、A.ランゲ&ゾーネの「ランゲ1」である。ドイツ医学の全盛期に医師となり、ドイツへの深い思い入れがあったFさんの父親。ブランド導入から間もないカミネで先代社長から購入したのが、このモデルだった。

 Fさんはまた、息子たちの時計愛も陶冶した。今回の取材では、次男のYさんと話す機会もいただいた。当時医大生だったYさんは、今や医師として独り立ちしている。そんなYさんに最も思い入れのある1本を尋ねると、2021年に発表された「ルミノール クロノ」の名が挙がった。「研修医から専攻医になる節目に、父が買ってくれたものです。専門医プログラムを受ける病院の抽選日に初めて着けたところ、その左腕で見事に第1希望のクジを引かせてくれた、僕のラッキーアイテムです」。

クレドール、ロイヤル オーク クロノグラフ、ファストバック GT モデナ

Fさん親子3代それぞれの感性を色濃く映す3モデル。ダイヤモンドをあしらったクレドールのプラチナモデルは、Fさんの父親が医師会の式典など晴れの日に着用した。2022年に刷新されたばかりの「ロイヤル オーク クロノグラフ」は、Fさんが驚くべき早さで入手した。クロノグラフ好きのFさんには、Cal.4401の採用で30分積算計がステップ運針でなくなった点が惜しまれる様子。装着感は絶賛だ。20代のYさんは、セミフォーマルな場ではパネライ、仕事中はAppleWatch、オフの日にはゴリラの「ファストバック GT モデナ」を着用。

 Fさんは腕時計を贈るにあたり、Yさんに「予算内ならば何でも良い」と伝えたそうだ。カミネの店内を見て回ったYさんが選び抜いた腕時計が、若き日の父と同じ「ルミノール クロノ」だったわけである。また、Yさんはこの後再びカミネを訪れ、貯めたアルバイト代で初めて自分用の腕時計を購入した。選んだのは2018年に日本上陸したブランド、ゴリラの自動巻きモデルである。父を見てきたYさんもまた、豊かな時計人生を送っていくのだろう。

年次カレンダー・レギュレーター 5235、カラトラバ 7120

結婚25周年を迎えたFさんと奥様は、銀に近い色味を持つホワイトゴールドの腕時計で銀婚式を祝った。Fさんはパテック フィリップの「年次カレンダー・レギュレーター 5235」を選択。パテック フィリップ・アドバンストリサーチにより、搭載されるCal.31-260 REG QAの脱進機とヒゲゼンマイはシリコン製だ。奥様には手巻き式の「カラトラバ 7120」。ギヨシェ装飾のアイボリーダイアルとダイヤモンドをあしらったホワイトゴールドがシンプルながら華やかだ。

 息子たちを無事、一人前に育て上げたFさんと奥様。今もふたりは結婚を記念する節目に、ともに時計を増やしている。結婚25周年には銀婚式にちなんだ色味を意識し、ともにパテック フィリップからホワイトゴールドモデルを選んだ。Fさんは「年次カレンダー・レギュレーター」、奥様は「カラトラバ」だ。2022年に迎えた結婚30周年記念は、その年に発表された新作からパテック フィリップ「ワールドタイム フライバック・クロノグラフ」とカルティエ「クッサン ドゥ カルティエ」で祝した。

 時計を愛し、掛け替えのない家族との時間を慈しむ。何かと忙しく時間に追われがちな現代において、その幸福が一層尊く思われた。Fさんの足跡をたどる機会に恵まれたことに感謝したい。

ワールドタイム フライバック・クロノグラフ 5935A、クッサン ドゥ カルティエ

結婚30周年を迎えた2022年には、その年に発表された腕時計を揃えることで節目を祝った。パテック フィリップ「ワールドタイム フライバック・クロノグラフ 5935A」は、ワールドタイムとフライバッククロノグラフを兼備するCal.CH 28-520 HUを初めてSSケースに収めた話題作。奥様にはカルティエの先進的な宝飾技法が光る「クッサン ドゥ カルティエ」に、Fさんが30年憧れ続けたハイジュエリーコレクション「リフレクション」の指輪を添えて贈った。


アイコニックピースの肖像 A.ランゲ&ゾーネ/1815

https://www.webchronos.net/iconic/17124/
カミネ代表取締役社長、上根亨氏の原点になった時計と上がり時計

https://www.webchronos.net/features/32509/
時計愛好家の生活 H.Y.さん「きっかけはロレックスのサブマリーナーですね」

https://www.webchronos.net/features/109487/