去る2025年5月26日、このwebChronosの、そしてその母体である『クロノス日本版』の生みの親である友人、松﨑壮一郎氏が突然逝去された。この訃報を知ったのは、翌々日の28日、午前11時31分、仕事中に届いた電子メールからだった。「えッ、まさか。嘘だろ」と思った。すぐに編集部に電話を入れた。でも編集部員にはつながらなかった……。

Portrait Photograph by Masanori Yoshie
Photographs & Text by Yasuhito Shibuya
[2025年7月12日掲載記事]
「編集バカ」に別の視点を教えてくれた大恩人
あまりにもあっけない、今でも信じられない。新作時計の発表会に行ったら、隣の席にふらりと現れるのではないか。今でも、そう思えて仕方がない。なぜなら逝去される10日前の5月16日、まさにそんなかたちで会って話して、「その話を書いてよ」と原稿を頼まれていたからだ。そのときは本当に元気そうだった。
松﨑さんは酒屋の息子さんだが、お酒は一滴も飲めないし、だから飲まなかった。不摂生を誇るような無頼派でもない。元気そうだが、いくつかの疾患を抱えていることは、かねてからよく知っていた。定期的に検査入院をしていて、今回もその最中だったという。だから「ひとまずは安心できる状態」なのだと勝手に思っていた。それだけに、突然の逝去がとても信じられない気持ちだ。
出版広告のプロフェッショナル
松﨑壮一郎氏、いや松﨑さんとの友人としてのお付き合いは1990年代後半から。筆者が徳間書店の『グッズプレス』の編集者として時計の取材を本格的に始めた頃、たぶん時計関係のイベントで会ったのがきっかけだった。そして、松﨑さんと筆者が当時住んでいた場所が京王井の頭線の三鷹台駅〜井の頭公園駅近辺だったこともあり、週末、だいたい土曜日に近所のレストランに行くと松﨑さんが居て、そこで毎週のように会って情報交換をするようになった。
松﨑さんは雑誌の広告部の人、『Esquire(エスクァイア)日本版』(当時)の広告営業の人だった。日本で日本版が創刊されたときから広告部の部長を務め、エスクァイア マガジン ジャパンに体制が変わると代表取締役社長に就任。その頃から時計と靴が大好きで、広告営業として精力的に時計ブランドともコンタクトを取っていた。
松﨑さんは自他ともに認める「広告営業のプロ」で、文芸編集者から雑誌編集者になった僕は、松﨑さんから雑誌広告や広告営業の重要性、そのさまざまな実践について、松﨑さんから本当にいろいろなことを学んだ。
1990年代半ばまでは、雑誌にとっていかに広告が大事か、全然理解していない、それどころか「広告のことなんて編集者は知る必要などない」と、黙っていても広告が入った、あふれる広告を収容するために新しい雑誌が創刊されるという時代の感覚を引きずって、「編集>広告」という間違った特権意識を振り回す編集者が出版界にはたくさん居た。今からは信じられないことだが。
その代わりにと言っては僭越だが、筆者は松﨑さんに「編集者としての見方や意見」や「自分の関心」を話した。ただ、編集者は広告営業のようなまともな会社員とは違い、百人百様でひとまとめにはとても語れない(これはあくまで筆者の私見だが)。編集者は基本的にひとりひとりが独自の視点や発想で勝負している。そして取材で「他にはない、特別面白いこと」を人より早く知って、「そのネタで面白い記事を作る」ことだけが生きがいだ。
そうさせてもらえなければ、編集者という仕事はただの苦行だ。今も仕事のたびに思うのだが、編集作業は地味で細かくて面倒くさくて効率が悪いものだ。膨大な資料を読み解き、ビジュアルの構成を考える。オンオフの区別なく「どうすればもっと面白い、素敵なコンテンツになるのか」どんなときも、寝ているとき以外は考え続けているのだから。
松﨑さんは、そんな私たち編集者ひとりひとりを、口では「ダメじゃないか」とツッコミながら、実はとてもとても尊重していた。それは松﨑さんと働いたことのある編集者ならよくご存じだろう。
そんな松﨑さんは「編集バカ」だった筆者に別の視点を教えてくれた大恩人だ。出版は何よりもビジネスだという大原則を。それが『グッズプレス』とその時計専門誌『世界の本格腕時計』のデスク、そして副編集長のとき、どれほど役に立ったか、本当に感謝している。
そして2003年1月、徳間書店での仕事に限界を感じていた筆者は、松﨑さんが社長だったエスクァイア マガジン ジャパンに誘われて、契約編集者として入社することになる。タイアップ記事を中心にした時計特集ができる、時計に関して長い取材経験がある編集者が当時の編集部には居なかったこともあり、そんな記事を担当してほしいということだった。
ただ、2003年春の時計特集やクルマ特集などを担当した後、筆者はいくつかの理由で、6月いっぱいで松﨑さんの期待を裏切ることになる。契約解除をお願いしてフリーランスにしてもらったのだ。この後、実はBSテレビの帯番組の総合企画監修を何年かやらせてもらうことになる。こうした仕事も、フリーランスになった理由だ。ただこの後『エスクァイア日本版』のコントリビューティングエディター(外部協力編集者)として、時計を中心にいろいろ仕事をさせてもらうことにはなるのだけれど。
改めて振り返ると、またこのwebChronosにも自身でエッセイを残しているけれど、松﨑さんは本当に時計が大好きだった。誰よりもスイスの2大時計フェア(いずれも当時)、通称ジュネーブ・サロン(旧SIHH)とバーゼル・フェア(後のバーゼルワールド)に行くことを楽しみにしていた。これほど時計を心の底から好きだった人は、少なくとも出版の広告営業の世界にはいない。時計フェアで「これは欲しい」という新作時計に出合ったときの松﨑さんの顔が今も頭に浮かぶ。実際、ロレックスのサブマリーナーなど、その場でオーダーして、愛用していた時計がいくつもあるはずだ。
『クロノス日本版』創刊前秘話
その後、松﨑さんはエスクァイア マガジン ジャパンがTSUTAYAを擁するCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)グループ傘下になった後、しばらくして同社を去った。そして、自由の身になった松﨑さんは、いよいよ「好きな時計の雑誌」つまり『クロノス日本版』の創刊に向けて活動を開始する。
松﨑さんが亡くなった今なら、語っても許される、というか語っておいた方がいいだろう。実は筆者は『クロノス日本版』の創刊準備に関わっていた。創刊の前年、2004年12月、ドイツの『Chronos(クロノス)』の版元との提携交渉の際、“個人的・自主的参加のオブザーバー(立会人)”として、ドイツ・ウルム市にある『クロノス』発行元に勝手に同行した友人として、その場にいたのだ。提携交渉はすぐにまとまった。
なぜドイツの『クロノス』と提携したのか。それは現在も不動のレギュラー寄稿者である名畑政治さんなどのアドバイスや、また自身の評価からだったろう。ドイツらしく着用テストに基づく厳格な評価記事など、当時の日本の時計雑誌にはない企画が本家、つまりドイツの『クロノス』にはあった。かつて『エスクァイア日本版』でも提携契約の延長交渉の経験がある松﨑さんにとって、国際的な提携交渉は初めてではなかった。
提携せず、まったくゼロから時計雑誌を創刊することも可能だったろう。しかし松﨑さんは、社長を務めていた『エスクァイア日本版』のように『クロノス』の“看板の価値”を知っていた。かつての『エスクァイア日本版』のように、『クロノス日本版』の記事は、提携記事はごく一部。基本的には日本版のオリジナル記事が中心だ。ただ『クロノス』という看板や厳格な評価記事など、ゼロから作れない価値を松﨑さんは重視したのだ。その判断は正しかった。
提携交渉の後、松﨑さんと筆者はクリスマスマーケットが開催されていたドレスデンを訪ねた。レンタカーを運転してグラスヒュッテでA.ランゲ&ゾーネの当時の本社まで行ってみた。また、マイセンの工房の見学ツアーに参加したことも憶えている。
そして『クロノス日本版』は、2005年の10月に創刊された。ただ、筆者は創刊号には一切関わっていない。寄稿もしていない。本誌関連の仕事をしたり、寄稿したりするようになったのは創刊から5年以上も後の2010年以降。それには理由がある。松﨑さんに「編集部に入ってほしい」と言われたのだが、それを断ったからだ。代わりに他の人を推薦した。オブザーバーまで務めたのになぜ、と思われるだろう。だが、いくつかの理由で「自分はその任に非ず」と思ったからだ。松﨑さんには申し訳ないが、その判断は今も正しかったと思っている。

創刊から現在まで、松﨑さんが率いる広告部の素晴らしい営業努力。そして、編集長をはじめ副編集長、編集スタッフや外部の素晴らしいライター陣、またマンガ家さんたちの情熱と努力によるドイツ版を凌駕する独自記事。それを支えた内部スタッフの奮闘で『クロノス日本版』は、世界的にもハイレベルの「時計専門誌」として、確固たる存在になった。2022年4月に創刊100号を、そして今年2025年10月に刊行される第121号で創刊20周年を迎える。
創刊20周年という大きな節目に際し、松﨑さんのことだから、まだまだこの先の発展を考えていたはずだ。だがまさかその直前に、突然旅立ってしまった。きっと本人も予期しておらず「あれ、おかしいな」と思っていたに違いない。ご本人すら“実感”はなかったのではないか。そう思えて仕方がない。また、そのことが残念でならない。
ただ、誰よりも時計という精密機械を愛した松﨑さんの想いから『クロノス日本版』という素晴らしい雑誌が生まれ、これまで日本中の時計愛好家、さらに日本や世界中の時計関係者を幸福にしてきたこと。この事実、この業績は、他の人には絶対にできなかった、日本の時計史、出版史に残る偉業であり、いくら讃えても讃え過ぎということはない。そして、これからも松﨑さんの情熱はシムサム・メディアのスタッフに受け継がれ、時計を愛するあらゆる人々を楽しませ、感動させ続けるだろう。
今はただ、天国の松﨑さんにこう申し上げて、この文を終わらせていただく。
「松﨑さん、素晴らしい時計雑誌を作られましたね。お疲れ様でした。そして、ありがとうございました」