深い森と山々に囲まれたドイツ・ザクセン州の小さな町、グラスヒュッテ。今や世界中の時計愛好家が憧れるこの「ドイツ時計製造の聖地」が歩んできた道のりは、決して平坦なものではなかった。ガラス製造から銀山による繁栄、そして資源の枯渇や戦争・疫病による衰退……。過酷な運命に翻弄された町に時計産業という新たな希望の光をもたらし、今日の確固たる地位の礎を築いた偉人たちの情熱とは? 波乱に満ちたグラスヒュッテの数奇な歴史を解説しよう。

[2026年4月9日掲載記事]
グラスヒュッテを歩く 第1部 —— 遺産の基礎とドイツ時計製造の夜明け
グラスヒュッテがドイツ時計製造の中心地となるまでの道のりは、まるで優れた小説のようである。それは、多大な努力とリスクが伴いながらも、その回復力が最終的に報われ、しかし再び一からやり直さなければならなくなるという物語だ。
隠された時計の郷、グラスヒュッテへの旅
時計製造における最も偉大で魅力的な物語は、日本であれ、スイスであれ、あるいは今回の場合のドイツであれ、しばしば「極めて小さな地域」から生まれる。共通しているのは、これらの場所にたどり着くには、地図から外れて車を走らせなければならないような感覚を抱くということだ。
大自然の最高の景色に囲まれ、文明を後にして、人里離れた、ほとんど隠されたような場所を訪れるように思える。グラスヒュッテの場合、これは州都でありこの地域最大の都市であるドレスデンの古典的で国際的な雰囲気を後にして、ザクセンの森や山々を抜け南へ車を走らせることを意味するのだ。
この旅はわずか40分ほどしかかからないが、別の時代へとタイムスリップさせてくれるに違いない。
ガラスと銀、そして麦わら細工の時代
グラスヒュッテの歴史は15世紀に始まり、おそらくガラス製造に特化した小さな集落が形成されたと考えられる。これは、ドイツ語で「ガラス工場」を意味する町の名前の説明にもなるだろう。
砂、長石、ソーダ、石灰など、ガラスの製造に必要な材料はすべて山や森で容易に見つけることができたため、生産拠点を置くには理にかなった場所であった。おそらく戦争によって生産は停止したが、1490年、山中で銀鉱石が発見されたことでグラスヒュッテの歴史の次なる章が記された。
これにより、地域が大きく繁栄しただけでなく、統治者であるザクセン公ゲオルクの注目も集めた。当時、私たちが今日知るドイツは存在しておらず、神聖ローマ帝国のもと、帝国都市や自由都市、司教領や大司教領を含む無数の伯爵領、公国、侯国の集合体であった。

それにもかかわらず、ザクセンは帝国の重要かつ影響力のある一部であり、その公爵は新皇帝を指名する選帝侯会議の7人のメンバーのひとりであった。発見された銀鉱石の一定割合を自らのものとして要求するのは主権者の権利であったため、ザクセン公ゲオルクが1506年にグラスヒュッテに都市権と採掘権を与えたのも驚くことではないかもしれない。
グラスヒュッテを歩いてみると、市の紋章に描かれた交差する2本のハンマーを除けば、その時代を思い起こさせるものはほとんど残っていない。銀鉱石の発見は人々をグラスヒュッテの町へと引き寄せたが、資源が枯渇すると全く逆のことが起こった。この地域で長引くいくつかの戦争や、ペストなどの疫病が、グラスヒュッテの住民の生活を困難なものにした。
この山岳地帯では農業が非常に困難であったため、なおさらのことであり、人々は生計を立てるために麦わら細工を始めることを余儀なくされた。

ザクセン政府への支援要請とランゲの登場
19世紀、ザクセンはまだ主権国家であり、進歩的な国家であった。工業化に多額の資金を投資し、1813年には首都ドレスデンとベルリンの間に最初の鉄道を開通させた。しかし、山奥にひっそりと佇むグラスヒュッテは、最初は忘れ去られていた。
市議会はザクセン政府に緊急の支援要請を送ったが、政府がこれに応じ、グラスヒュッテのような地域に工房を設立する職人を募る公告を出すまでには数年を要した。
ドレスデンのザクセン宮廷の公式時計師であったフェルディナント・アドルフ・ランゲは、この行動の呼びかけに応じた。この豊かな環境の中では芸術と科学が高く評価されており、ランゲは15歳で著名な時計師ヨハン・フリードリッヒ・グートケスの見習いとして加わることができ、後にグートケスの娘と結婚することになる。
彼らが共に成し遂げた最も注目すべき功績のひとつは、ドレスデンのゼンパーオーパーのための5分時計の開発であった。

ゼロからの挑戦と妥協なき品質追求
見習い期間を終えた後、ランゲはフランス、スイス、イギリスといった時計製造の国々を旅し、斬新なアイデアを胸にザクセンへと戻ってきた。ザクセン政府は、町に時計工房を設立するというランゲの申し出にあまり乗り気ではなく、1年後に彼が再び提案書を送って初めて肯定的な返事を得ることができた。
そして、真の挑戦が始まった。麦わら細工の職人の町で時計工場を始めることは、決して容易なことではないからである。
ランゲは、彼がムーブメントを構築するのと同じように、正確さ、忍耐、そして不屈の精神をもってこれに取り組んだ。時計製造に関してグラスヒュッテにはこれといった過去の経験はなかったかもしれないが、ランゲは希望とより豊かな未来を提示し、それは受け入れられたのだった。
ザクセン政府はランゲに事業を立ち上げるための融資を提供し、見習いたちを財政的に支援したが、彼の会社は存続のために利益を出す必要のあるビジネスであることに変わりはなかった。

同時に、ランゲは可能な限り最高の品質を提供することに猛烈に専念。彼はドイツが正式に採用するずっと前にメートル法を取り入れ、労働を専門的な部品ごとに分割し、工房を出る前にすべての時計が計時され調整されることを主張した。これは当時としては急進的なアプローチであった。
ランゲはまた、見習い期間を終え、必要な年数の雇用を経た後には、従業員たちが自らの事業を立ち上げることを奨励した。彼は競争を恐れるのではなく、持続可能な産業には複数の独立したメーカーと専門的なサプライヤーが必要であることを理解していたのである。

ドイツ時計学校の設立と産業の再編
ハウプトシュトラーセ(メインストリート)沿いに鉄道駅へ向かって進むと、手入れの行き届いた魅力的な家々が道を彩っている。町は静けさを保っており、そこがドイツ時計製造の中心地であることを示す兆候はほとんどない。だが、1881年以来ドイツ時計学校が入っている堂々たる建物に近づくと、その印象は突如として変わる。
1878年にモリッツ・グロスマンによって設立されたこの学校は、グロスマン自身の工房や、1869年にグラスヒュッテで会社を設立したロベルト・ミューレの工房を含む、職人とメーカーの繁栄するエコシステムを支えていた。

1923年に学校が拡張される頃には、グラスヒュッテはすでに第一次世界大戦の経済的余波を耐え抜いていた。懐中時計の生産は停滞し、腕時計の人気が高まり、スイスのメーカーが競争上の優位性を獲得。ドイツは実用的な対応をとり、財団が教育に資金を提供し、銀行が1926年に残存するメーカーをUrofaとUfagに統合したのである。
Ufagはその後、チュチマブランドでその名を轟かせ、グラスヒュッテの時計産業に勢いを取り戻させることになる。

グラスヒュッテは軌道に乗ったが、より暗い時代がすぐ先に迫っていたのである。(第2回に続く)



