松山猛の台湾発見「闘茶朋友」

LIFE松山猛の台湾発見
2018.10.27

茶業改良所の評茶室に並べられた茶葉。形状、香気、味覚だけでなく、自然光の元で茶葉の色も評価される。

チャンピオン・ティーのこと

 今回の台湾の旅は、その数年前に烏龍茶とは何かというルポルタージュを『家庭画報』誌に書き、その記事が産地の農協にあたる鹿谷郷農会の人たちに歓んでもらえ、一度でいいから見てみたいと言い続けていた春茶のコンテストに特別の客として招いていただいたのだった。東京から3時間、桃園のCKS国際空港に矢沢氏、佐藤君、そして僕の3人が降り立つと、台中の貿易商の張さんが車で出迎えに来てくださっていた。そのまま一路、高速公路を南下して、2時間足らずのうちに台中市の中心街に着いた。驚いたことに1年半くらい来ぬうちに、新しい高層ビルが何棟も天に向かって突きあげるように建っている。台湾経済が上向きであることをはっきり証明するように、台中は今、ビル・ラッシュなのだ。
「すごいね張さん、この辺って、昔は日本統治時代の木造住宅とかが多かったんじゃないの。 ほほう」矢沢氏の驚きに、僕も同感した。
「それがね、土地の値上りもすごかった。場所によっては、20倍ですよ」
 東京の商業地の地価が、バブル時代に地上げブームで大混乱したが、同じようなことが台湾でも起きたらしい。
「それに、今までなかった物ができましたよ。今夜案内しますがビヤホールね。戒厳令解除前にはなかったんだ。あれが」
 最初の夜の宿、台中大飯店にチェックインして僕はすぐさま風呂にはいり、亜熱帯近くの国に来て、吹出すように流れた汗を落した。5月末の台湾はすでに梅雨入りしていたが雲は案外高く、時としてくずれるが、心配していた土砂降りもなかった。その代わり気温も湿度も 横浜に比べると格段に高い。
 僕は一刻も早く今年の良い茶が飲みたかった。5月のはじめに鹿谷郷農会から品評会への招待状と共に特別のお茶を贈ってもらって、その出来の良さに舌が震えた。そして今日、ついに待ちに待った鹿谷へ、あと一歩の台中に来ているのだ。
 翌朝僕らは、観光地として有名な日月潭近くの魚池にある台湾省立茶業改良場に向かった。 そこで茶の良し悪しを決める官能テストの実際を見せてもらうためにだ。
 その官能テストの方法こそ、かねてから興味を持っていた世界である。聞くところによると今回の春茶品評会には4000余の農家が参加したという。その数字から考えると鹿谷郷のほとんどの農家が茶を生産しているようだ。そして形状、香気、味覚などを審査員がテストするらしいのだが。
 魚池の茶業改良場には、何信鳳(カシンフォン)という先生がいる。この方を中心に品評会の官能テストが行われるとか。そしてもうひとり、今回の旅に招いてくださった、鹿谷郷農会総幹事、林光演(リンクアンエン)さんも、我々一行を出迎えに来て下さっていた。
 さっそく通された評茶室(テイスティングルーム)には、台湾各地に産する烏龍茶、清茶、紅茶など10数種が並べられていた。自然光がはいるように天窓がもうけられ、補助用の昼光灯が天井に埋めこまれた窓ぎわに、ミディアム・グレーの2段のカウンターがある。カウンターが灰色なのは、茶色を見極めるのに余分な色彩の干渉をさけるためだろうと思った。後で聞くと、まさにそのとおりという答えが返ってきた。
 テスト用の器は蓋付きのカップ1組、そして茶碗がひとつだ。どちらも色がはっきりわかるように純白の磁器。
 蓋付きのカップに、正確にスケールではかった3gの茶葉を入れ、90℃の熱湯を150CC注ぎ、6分間かけて茶湯を抽出する。
 そして6分後に茶碗の方に移しかえ、それ以上に茶のエキスが滲出するのを防ぐ。テストはまず鼻を用いて、深呼吸の要領でその香りを味わうのである。
 そしてスプーンで、小さな茶碗あるいは、試験用使いすてのプラスティック・カップに移した茶湯を口に含むのだが、この時、ワインのテイスティングでも同じようにやるが、ズウルルルっと音をたてて、口の中で茶をころがすのだ。これは数年前の取材の時に気付いて、以来自分でも、新しく手に入れた茶を最初に飲む時などにやってみる。
 次は茶湯の色だが、この時、茶碗に、どれだけの茶滓(ちゃかす)が出ているかを、注意深く見る必要がある。ていねいに手で摘まれ、高度に熟練した手から生まれた茶葉からは、茶滓はあまり出ないのだ。製造の工程で、茎や滓は取り除かれていなければならないからである。
 そして抽出後の茶葉は、ちりちりにねじれていた烏龍茶特有のかたちから、摘まれる前のかたちにもどる。機械摘みだと、葉が完全ではなく、カットされている場合がある。また発酵の度合いも、その色彩によってわかるというものだ。(つづく)

松山猛プロフィール

1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。