松山猛の台湾発見「僕の烏龍茶始め」

LIFE松山猛の台湾発見
2018.11.10

松山氏が取材当時に撮影した、鹿谷郷での茶葉の品評会の様子。この後、松山氏がこの場でスピーチを任されることとなる。

僕の烏龍茶始め

 あれは今から15年くらい前だろうか。台湾系の家内と一緒になってしばらくして、家内の父親から、烏龍茶をいただいたのだった。
「はじめは、いれ方も知らなくて、適当な飲み方を、つまり紅茶と同じような扱いでやってたんですよ。しかし、はじめて台湾に来た時、彰化のおじさんの家でいれてもらって、すっかりいれ方もおぼえたわけです」
 そんな話をしていると、杜さんがひょっこりとやって来た。彼は台中の北の豊原という古い街で、泉芳茶荘という専門店を経営している、つまり茶を商うプロである。
「杜さん遅かったじゃないか」と張さん。
「申しわけなかったね」
「今、可(カア)さんに、杜(トウ)さんはどうしたんだろうって、冗談言ってたんだ、ワッハッハ」
 こうして役者が勢ぞろい。僕らは鹿谷の農会へ、1台の車を連ねて向かうことになった。途中、日月潭の料理屋で食事をし、名所の文武廟を見学するおまけ付き。台湾の人たちは、とにかくせいいっぱいの歓迎の意志を、あちこち見せ、たらふく食べさせ、そして飲ませるという、実質的なかたちにして、相手を完全に満足させてくれるまで、とどまることがないのである。
 農会には、2年前にお世話になった、邱(キュウ)秘書長や、たくさんの人々が待ち受けて下さっていた。その応接室でも、まずは春茶を1杯とすすめられる。
 官能テストのいれ方と、いわゆる巧夫(クンフー)茶と呼ばれる、中国式の茶のいれ方は全く異る。小ぶりの茶壺は日本で言うところの急須で、そこに適量の茶葉を入れ、沸騰した湯をあふれるまでそそぎ、まずその第1煎目をすてる。同時に茶杯を温めておき、2煎目を茶壺にそそいでしばし待つ。
「ご存知でしょうが、やはり1煎目はすてなくちゃね」と杜さん。
「あれを僕は、眠っている茶葉を起こすためだと、日本の人に説明してるんだけど」
「けっこうですよその説明で。泡茶といってね、泡立たせて、ふたで泡を切る。滓もその時に出してしまうんだよ」
 さ、どうぞ、どうぞと農会の若い役員さんが、最初の1杯をすすめてくれた。まず香りをかぐと、相当良い茶であることがわかった。そして味。これもまろやかで申し分がない。
「いやあ旨い」
そこで3煎目が出て、飲もうとしていた時、
「そうそう発表会の当日、松山先生にもスピーチを」という邱秘書長のひと声があり、思わず熱い茶をふき出しそうになった。
「スピーチ、やるんですか、僕が。あれ苦手なんですけどねえ」
「日本を代表してね」
 うへえ、これはどえらいことになった。その瞬間から、僕はスピーチの内容を考えるのに忙しくなったのだった。

松山猛プロフィール

1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。