時計の名設計者「クルト・クラウス」という時代

FEATURE本誌記事
2020.10.31

クルト・クラウスという時代

スイスの時計業界に、名設計者といわれる人物は少なくない。しかし手掛けたムーブメントの多様さと、業界全体への影響力の大きさを考えると、クルト・クラウスに勝る設計者は今もって存在しない。往年の名設計者、アルバート・ペラトンに学んだ彼は、やがて独自の世界を拓き、それを後進たちに伝えた。本人とその周囲へのロングインタビューから、クルト・クラウスという“時代”を振り返ることにしたい。

三田村優:写真 Photographs by Yu Mitamura
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota
この記事は 2014年8月発売の9月号に掲載されたものです。

「私はアルバート・ペラトンの見習いとして多くを学んだ。彼は最高の品質にしか興味がなかった」 - クルト・クラウス

As an assistant, I learned a lot from Mr.Pellaton.
He was always striving for best quality. - Kurt Klaus

初代ダ・ヴィンチ用永久カレンダーモジュールのドローイング。これはダ・ヴィンチの根幹をなす、デイトリングに引っかけられて回るリングと、それに連動するレバーを示したもの。

やはりダ・ヴィンチのドローイングより。彼は月齢の計算を、コンピュータではなく手で行った。誤差が122年に1日という月齢表示は、精密な工作機械というより、クラウスの精密な計算がもたらしたものだ。

 もし、クルト・クラウスがいなければ、現在のようなIWCは存在しなかっただろう」。そう語ったのは、IWCミュージアムで学芸員を務めるデヴィッド・セイファーである。しかし筆者の見るところ、彼がもたらした功績はそれだけに留まらない。

 クルト・クラウスは、懐中時計用のモジュール設計からキャリアをスタートさせ、やがてエボーシュの改良まで手掛けるようになった。後年に彼は永久カレンダーやロングパワーリザーブの自動巻きを作り上げ、最後はトゥールビヨンも設計するに至った。

 今やこうしたマルチな才能を持つ設計者は少なくない。カルティエのキャロル・フォレスティエ=カザピ然り、APルノー・エ・パピのジュリオ・パピ然り、フランソワ-ポール・ジュルヌ然り。しかし時計産業に与えた影響の大きさを考えると、クルト・クラウスという時計師は、もう一段高い位置にいる。

グランドコンプリケーションの図面

1990年に発表されたグランドコンプリケーションの図面。これはミニッツリピーターのモジュール部である。薄くするため、中間輪列を介して部品を散らすといったアイデアが光る。複雑時計らしからぬ頑強な規制バネ類にも注目。すでに「クラウスらしさ」が際立つ設計だ。

彼はETA2892を、ETA2892-A2に進化させた陰の立役者であり、ジュリオ・パピに時計作りを教えた師であり、モジュールの在り方を一新した革新的な設計者であった。そして機械式時計冬の時代に、先達であるアルバート・ペラトンの思想をIWCに残した、いわばメンターでもあった。しかし、実際にクラウス本人と言葉を交わしても、彼がそれほどの業績を残した設計者には見えない。何が彼を〝ペラトンの見習い〟から〝大設計者〟へと変貌させたのだろうか。

「ゾロトゥーンの時計学校を出た後、すぐIWCに就職した。その際アルバート・ペラトンの見習いとして多くを学んだよ。ペラトンは最良の品質にしか興味がなかった。というのも、時計は50年や100年は使えるものと考えていたからだ。こういう話がある。ペラトンはしばしば製造現場に足を運んだ。彼はホゾ磨きの工程をじっと見て、0.003㎜ではだめだ。0.002㎜にまで詰めて欲しいと現場にプレッシャーをかけた」

懐中時計ムーブメント

クルト・クラウスが1974年から75年にかけて製作したムーンフェイズ付きの懐中時計ムーブメント。事実上、彼にとっての第一作だろう。「鉛筆で小さなスケッチを描き、受けなどを自分でカットして製作した」とのコメント通り、いかにも手作業で作った仕上がりを持っている。
Cal.9721

1970年代後半には、懐中時計専業メーカーへの転進を図ろうとしていたIWC。代表作が77年のRef.5550である。既存の懐中時計用ムーブメントに、クルト・クラウスの設計したカレンダーモジュールを加えたCal.9721を搭載する。なおハンターケースのRef.5450も製作されている。31石。18KYG。参考商品。


「手作業で時計を作るのは決して難しくない。しかし工業的に生産できなければ、それは玩具でしかない」」 - クルト・クラウス

It’s not difficult to make a complicated movement
entirely by hand. However, it would
remain just a toy without the industrial process. - Kurt Klaus

Ref.5251

1980年代初期の傑作がRef.5251。発表は81年。薄型のCal.952にムーンフェイズを加えたムーブメントを搭載する。モジュールの設計はクルト・クラウス。18KYG(直径46mm)。参考商品。
Cal.89

クルト・クラウスが今なお愛用するCal.89。アルバート・ペラトンが手掛けた最高傑作のひとつである。1946年に発表されたこの手巻きムーブメントは、シンプル故の堅牢さと、量産機の基準を超えた高精度を誇った。なおクラウスが愛用するのは、1950年代製の個体とのこと。

 ペラトンの退任後、IWCは新しい薄型自動巻きである「キャリバー100」の開発を始めた。クラウスはそのプロトタイプの組み立てに携わったという。しかし動かないため、リタイアしたペラトンが急遽呼び戻された。

「キャリバー100は、100個ほど作ったと思う(セイファーによると製造数は15〜20個らしい)。品質は良かったが、ペラトンはムーブメントを見るなり、〝これは薄すぎる。製造すべきでない〟と言い切った。ムーブメントに携わるエンジニアは、同時に時計師の資質も併せ持つべきだ。そうしたら、組み上げる前にプロトタイプの不備を見抜けたはずだ」

 クルト・クラウスが、ペラトンの思想を学んだのはこの時だろう。彼はペラトン同様、薄型ムーブメントには懐疑的であり、設計者は時計師であることを求める。以降もIWCは極力厚いムーブメントを採用してきたし、設計者の出自はほとんどが時計師である。
「重要なのは、時計師としていくつもの機械に接してきた経験だ。現在のムーブメント開発責任者であるステファン・イーネンが好例だろうね。彼は優れた時計師だったから、私の後継者になったのではないかな」

取材時にクラウスの腕にあったのは「ダ・ヴィンチ パーペチュアル・カレンダー クルト・クラウス」。バックケースには彼の顔が刻印されている。SS(縦43.1×横51mm)。世界限定3000本。

 1960年代後半から70年代にかけてさらに業績を伸ばしたIWC。しかし74年に入ると、経営は急速に傾いた。アメリカがドルの固定相場制を止めた結果、スイスフランが急騰したためである。輸出に依存していたスイスの時計産業は、クォーツの普及以前に大きな打撃を受けていた。

「この時代は、週に4日しか働けなかった。私はシャフハウゼンに自分のワークショップを持っていたので、そこで作業することが許された。空き時間に考えたのは、懐中時計にムーンフェイズのモジュールを載せるアイデアだった。鉛筆で簡単なスケッチを描き、ミングマシンで地板や部品をカットして、プロトタイプのムーブメントを作った」

 彼は完成したムーブメントを、当時の営業責任者であったハネス・パントリに見せた。「クレイジーだが立派な仕事だ。これを100個作れないか」と言われたという。このムーンフェイズがひとつの契機となって、不振にあえぐ70年代後半のIWCはこの時期、懐中時計の専業メーカーに転進しようとしていたらしい。しかし、続いてカレンダー付きの懐中時計を作り上げたクラウスに、パントリはこう言った。「次は腕時計で作って欲しい。しかも永久カレンダーでなければダメだ」。

 クラウスによると、彼が永久カレンダーの設計を始めたのは80年のことであった。

「本を読んだり、昔の懐中時計を見て、永久カレンダーがどういう機構かは学べた。ただ私は単に作るのではなく、今までにないものを作りたいと思った。考えたのは、何を作りたいかではなく、何を作りたくないかだった」

 やがてIWCとクルト・クラウスに名声を与える「ダ・ヴィンチ」のプロジェクトは、こうしてささやかなスタートを切った。

ダ・ヴィンチが搭載するCal.7906のモジュール部。右はモジュールの最下層。デイトリングと同調する黒いリングが一日にひとコマ動き、永久カレンダーの動力源となる。中は黒いリングで駆動される銀色のリングと、それに連動する作動レバー。このリングの動きは48カ月カムで規制され、その作動幅によって月末の日送りの日数が決まる。左はカレンダーの上部。西暦4桁を示す表示に注目。デイトリングの回転で永久カレンダーを動かすアイデアは、永久カレンダーらしからぬ操作性をもたらした。

「開発前に市場調査を行った。永久カレンダーはすでに存在していたが(オーデマ ピゲが78年に極薄の永久カレンダーを発表)、当時永久カレンダークロノグラフはなかった」

 既存の永久カレンダーのような、複雑で使いにくいものは作りたくなかったと語るクラウス。彼は新しい永久カレンダーを簡潔なものにしたかった。やがて彼は、日付表示を司るデイトリングの回転で、すべてのカレンダーを動かすというアイデアに至る。当時の経営責任者は、計器メーカーVDO出身のギュンター・ブリュームライン。彼はクラウスに次の条件を突きつけた。「好きに作っていい。しかしムーブメントは既存の物を使うこと」。

「ベースムーブメントとして、バルジュー7750以外の選択肢はなかったね。これはデイト表示がついていたし、しかも日付の切り替え動作がゆっくりだったので、動力源として使えると思ったよ。ベースには、当時のIWCが使っていたジャガー・ルクルトの888/889も検討した。しかしこれは日付の切り替わりが急で、永久カレンダーの動力源には使えなかった」

 日車ではなく、デイトリングを動力源とするという離れ業により、この新しい永久カレンダーは、リュウズを一段引きして回すだけでカレンダーの早送りが可能になった。またデイトリングが動力源のため、日付表示付きのムーブメントならば、クォーツにさえ永久カレンダーを載せることができた。

「クォーツで動かすことまで考えたから、モジュールの抵抗は非常に小さくしたよ」

 すでに知られていることだが、彼はダ・ヴィンチの設計に、コンピュータを使わなかった。122年に1日の誤差しか生じない月齢表示も、『Logarithemen Tabelle』という本を読んで、動きをコンマ以下5桁まで計算したという。最初のドローイングが完成したのは、プロジェクトのスタートから3年後の83年7月19日のこと。

「重要なのは堅牢で使いやすいこと。しかしそれ以上に大切なのは、工業的規模で生産ができることだった。永久カレンダーやトゥールビヨンを手作業で作るのは難しくない。しかしそれは玩具でしかない。重要なのは大量生産できることであり、ダ・ヴィンチで目指したのはすべて機械で作れることだった」
彼が〝手作業は難しくない〟と強調したのには理由がある。83年に図面を完成させた彼は、続くプロトタイプの製作もひとりで行ったのである。当時は私しかいなかったからねと苦笑するが、凡庸な時計師にできる仕事ではない。ともあれ、まったく新しい永久カレンダー、ダ・ヴィンチは大ヒットを遂げた。しかも生産性に優れていたため、あるスイスの時計関係者が「発表年だけで、市場に存在する永久カレンダー以上の本数を作った」というほどの数量を作ることにも成功した。