ウォッチズ&ワンダーズ ジュネーブ 2022レポート【その4】バーゼルワールドを“吸収”した世界No.1時計フェアで改めて消滅の経緯と「偉大さ」を振り返る

FEATURE役に立つ!? 時計業界雑談通信
2022.07.17

ウォッチジャーナリスト渋谷ヤスヒトの役に立つ!? 時計業界雑談通信

2022年3月30日から4月5日に開催された、今や唯一無二の大規模な時計フェアになった「ウォッチズ&ワンダーズ ジュネーブ(W&WG)2022」。その振り返りレポートの過去3回は、筆者が実際に見て感じた現地の状況、雰囲気、さらにそこで感じた、考えたフェアの問題点や課題についてお伝えした。
レポート4回目となる今回は、W&WGの会場で感じた2大時計フェア体制の終焉とバーゼルワールドの消滅を振り返り、時計フェアの価値について考えたい。

© Yasuhito Shibuya 2022
2001年、スイス2大時計フェア体制が確立された頃の「バーゼル・フェア2001」(左)と「SIHH 2001」(右)。バーゼルからジュネーブの順で開催された。
渋谷ヤスヒト:写真・文 Photographs & Text by Yasuhito Shibuya
(2022年7月16日掲載記事)
ウォッチズ&ワンダーズ ジュネーブ 2022レポート【その1】 たどり着いたら「マスク・ゼロ」のスイス
https://www.webchronos.net/features/81065/


いつもワクワクする「発見」があったバーゼル

 1917年から100年を超える歴史を持ち、世界最大の時計宝飾見本市(フェア)だったバーゼルワールド。つい3年前まで開催されていた、この「時計フェアの代名詞」について書くのはこれを最後にしようと思う。

 なぜなら「バーゼル復活の目」はもうなく、ただの「歴史」になったからだ。でも、だからこそ25年以上も取材し続けてきた者として、そして、楽しみにしていた者として生の証言を残しておきたい。

© Yasuhito Shibuya 2022
2013年、バーゼルワールドの最も賑やかなホール1。女性たちが配っているのは毎日発行されていた「バーゼルワールド Daily News」。

 ところで、1月にジュネーブで開催されていたSIHH(Salon International de la Haute Horlogerie、通称ジュネーブ・サロン)と3月にバーゼルで開催されていたバーゼルワールドという時計フェアの2極体制は、振り返ってみると約30年間も続いたものだった。ただ、筆者が取材を始めたのは第5回SIHHとなる1995年から。なので、残念ながらそれ以前のことは分からない。

© Yasuhito Shibuya 2022
こちらは同じ2013年、ジュネーブで開催されたSIHHのA.ランゲ&ゾーネのブース。入場者は飲食サービスが無償で受けられる。

 さて、取材を始めた1995年当時からジュネーブのSIHHとバーゼルワールドは、雰囲気も展示方法もまったく違うものだった。そして、どちらにも真似のできない魅力があった。バーゼルワールドの魅力は何と言っても多様性。独立時計師からビッグブランドまで、最盛期には1700と言われる時計・宝飾ブランドが集結し、毎年新しい時計ブランドが、世界デビューを目指して入魂の新作を持ち込んで来ていた。

 だから毎年「今年はどんな魅力的なブランドを発見できるかの?」とワクワクした。そして、自分の目と耳、体力とカンを頼りにそんな新ブランドが毎年必ず見つけられたし、見つけるのが何よりも楽しかった。


2010年代後半から「迷走」したバーゼルワールド

 1995年、初めて取材したバーゼル・フェアの最初の記憶。それは「ダニエル・ロート」のブースで行われていた「寿司パーティー」だった。なぜか、そこを最初に取材することになったのだ。日本人の寿司職人が目の前で握っていて、それをツマミにダニエル・ロート氏や押しかけた関係者がお酒を鯨飲して、上機嫌で出来上がっている。その熱気を覚えている。

 当時のスイスでは、寿司は今よりもずっと高価なものだったわけで、これがどれほど贅沢なことだったか。後にこのブランドが買収されたとき、そのことに気づいて何ともいえない気持ちになった。

 1990年代から2000年代、そして2000年代から2010年代前半までのバーゼル・フェア/バーゼルワールドは、それぐらい景気が良かった。リーマンショック後の2009年を除けば、順風満帆だったと言えるだろう。スイス時計の工場出荷価格ベースの対外輸出額は、1990年代から2000年で2倍に、さらに2000年から2015年で2倍に増えている。つまり1990年代半ばから2015年で2×2=4倍になったのだ。

 そして2003年には、この成長に伴い、フェア自体の名称に「WORLD」が入って、「バーゼル・フェア」から「バーゼルワールド」となり、より大規模で世界的なイベントとして認知されていく。それまで日本から現地取材に来るメディアは時計専門誌関係者だったが、この頃には男性誌、女性誌、ライフスタイル誌まで、広告担当と共にスイスにやって来た。

 だが2013年、会場のメッセ・バーゼルを地元バーゼル市出身でバーゼルの公共建築を数多く手掛ける世界的な建築ユニット「ヘルツォーク&ド・ムーロン」がリニューアルしてから、フェアには暗雲が立ち込める。スイス時計の最大の顧客である中国市場で景気後退が起きる中、中堅の時計グループや2000年代にバーゼルに進出したブランドが、年々高騰する出展料などに対する不満から撤退を始めたのだ。

© Yasuhito Shibuya 2022
メタルの輝きを生かしたヘルツォーク&ド・ムーロンによる改装を受けた、2013年のバーゼル・メッセ会場。外観が最先端の現代建築として生まれ変わった。

 そして2018年夏、スウォッチ グループの離脱宣言で、これまで事務局が隠蔽してきたバーゼルの危機はもはや隠せないものとなる。筆者はこの数年前から、プレスリリースにはなぜか、参加ブランドの数が記載されなくなったことに不審を抱いていた。だから「やっぱり」と思った。

(左)スウォッチ グループのバーゼルワールド離脱を伝える2019年7月28日の現地メディア「NZZamSonnlag」のウェブサイト記事。
(右)スウォッチ グループの2019年の決算説明会(YouTubeのスウォッチ グループ チャンネルより)。


崖っぷちの2019年

2019年3月26日、実質的に最後の開催となったバーゼルワールドのクロージングカンファレンスで改善案を説明するバーゼルワールドのマネージングディレクター、ミシェル・ロリス-メリコフ氏(現在は退任)。

 バーゼルワールド事務局が出展社数を再び公表したのは、翌2019年のフェア最終日、初めて開催されたクロージングカンファレンスでのこと。このカンファレンスではマネージングディレクター(当時)のミシェル・ロリス-メリコフ氏が具体的な数字を公開し、2020年、2021年にわたる2年計画でのフェアの再生プランを提示した。このカンファレンスに集まったのは筆者の印象では150人ほど。出展料の引き下げやホテル代の正常化。不十分ではあったが「何とかしよう」というマネージングディレクターの姿勢は評価できた。

© Yasuhito Shibuya 2022
最盛期、1700を超えていたブランド数は520ブランドまで減少。そして改革案「バーゼルワールド2020+」も今となっては幻になった。

 だがこの2019年秋、バーゼルの危機はさらに深まった。日本のセイコーとカシオが撤退を表明。その他のスイスブランドの撤退も噂されるようになる。

 そして2020年春、新型コロナウイルスという「思わぬ伏兵」が2大時計フェアを襲う。ここでもバーゼルは初期対応を誤った。2カ月前にいち早くリアルなフェアの中止を決断し「デジタル(オンライン)開催」を宣言したジュネーブのW&WGとは対照的に、バーゼルはギリギリまで「何とか開催したい」という姿勢だった。