松山猛の台湾発見「西北雨(サイパーホー)」

LIFE松山猛の台湾発見
2018.09.29

松山氏が台中の丘陵地から街並みを撮影した写真。上空には「西北雨」を降らせる雲が立ち込めている。
台湾中部のにわか雨を『西北雨(サイパーホー)』と呼ぶ。亜熱帯の国ならではの激しい夕立は風景を一変させ、恵の雨となって大地を潤す。植物はそれによってたくましく成長し、人間の暮らしを豊かにしてくれるのだ。西北雨をやり過ごす間は一休みの時間。親しい人々との会話を楽しむのが台湾流である。
松山猛・著『ちゃあい』より(1995年、風塵社刊)

 西北雨(サイパーホー)は台湾中部のにわか雨だ。亜熱帯らしく、激しくそしてあっけないほど立去るのが早い、せっかちな雨。
 誰が名付けたか西北雨は、律儀なくらい、いつも同じ方角からやって来るらしい。即ち西の台湾海峡側から湧き立ち、低く垂れ込めた雲が駆け足で台湾中部に侵入してくる。
台中はかなり内陸部にある都市で、その南北に流れる大甲渓と大肘渓の河口の中間に、台中港と言う港町がある。今日の雨もその台中港の方角から、ふたつの町の途中にある丘陵地をこえようとしていて、すでにその稜線はあいまいな水蒸気のヴェールに包まれようとしていた。
激しい稲妻が空を切り裂き、雷鳴が少しおくれて大地をたたいてやって来る。「西北雨が来たね」と洪のおじさんが、台湾では波羅蜜(ボロミ)と呼ばれる、ジャックフルーツという大きな果物の実を取り出しながら言う。
「日本で言う『夕立ち』に当るかな」
「でもこの西北雨のほうが激しいと思いますよ。なんか空気の感じがちがう」と僕。
 僕は同時に、自分が育った京都の町の夕立のあとに匂う、あの土埃の香を思い出していた。我家のあった横丁は砂利を敷きつめた小路だったが、草木や瓦の上に降った雨によって、かもし出されるあの独特の匂いは、天と地が出合った、歓びのそれではなかったか。ここは洪のおじさんの長男の住まいである。大発展中の台中市のなかでも、群を抜く高層共同住宅で、彼が役員を務める建設会社が建てた。台湾の新しい暮らしのかたちを、シンボライズするような最初の住宅である。
 十五楼、つまり15階のペントハウスのテラスには、あのなつかしい夕立の後の匂いは届きそうにもないのだが、今はすでに旧市街から中央山脈方向へと立去る雨の余韻が、空気を夏の酷さから清涼なそれへと変えてくれた。家内の従兄である洪家の長男が、お茶の用意ができたと告げる。長男のゲンちゃんは、父親譲りのいれ方で、とっておきの春茶をふるまってくれた。湯温はあくまで高く沸騰していること。そして人数に見合った大きさの茶壺に、適量の茶葉をいれる。その中国茶の正しいいれ方を、僕に教えてくれた最初の人物こそ、彰化に住む洪のおじさんだった。
 おじさんは、僕の家内の母親の、妹の夫である。十数年前、はじめて家内の父祖の地台湾を訪れた時、洪家に泊めてもらって以来のおつき合い。そしてその夜、近くの料理屋でのもてなしの後、洪家の居間で、おじさんから巧夫茶の手ほどきを受けた。それまで、紅茶と同じように大きなポットで中国茶を楽しんでいた僕には、驚きの連続のような茶のいれ方であった。
 茶海に茶壺や茶杯を入れ、まず全ての器をにえたぎった湯で徹底して温めること。小型の急須で、かなり濃く茶湯を出すこともはじめて知ったのだ。
「最近の若い人は、こんな濃いのを敬遠するらしいが、昔から良い茶はこうして出して楽しんだんだよ」
 それはかつて味わったことのない、深く刺激に満ちた茶であった。山吹色を濃くしたような茶の湯の色と味、そして部屋に立ちこめる高貴な香り。
 当時おじさんはパイナップル缶詰工場に勤めていた。台湾産烏龍茶の大ブームの直前といった時代で、まだ台湾でも今日のように、誰もが高価な茶を、日常的に飲む時代でもなかった。
 彰化名所の八掛山大仏のある、どちらかと言えば郊外めいた横丁の家は、中部の平均的な大きさの家で、横丁に沿って軒を接して家々が立ち並ぶ一画にあったが、風通りの良い窓ぎわとか裏庭には、驚くほど大量の胡蝶蘭の鉢植えがあった。つまりおじさんは中国の文人の趣味を体現する人物だったのだ。
 台湾がまだ大日本帝国の一部、台湾県と言われた時代に生まれ、台湾系子弟として旧制中学を卒業するほどのインテリだったが、戦中戦後の混乱の時代に、いろいろな苦労をかいくぐり、戦後の復興期に、今日の驚異的な経済発展の基礎を作った世代のひとりの男だ。
 だから彼の子供たちへの期待は大きかった。彼らには可能な限りの教育への機会を与え、黙々と働く日々の自分への、ちょっとしたなぐさめが、茶や蘭の趣味だったのだ。
「こんなにおいしい烏龍茶ははじめてですよ。なるほどこうしていれるんですか」
 クルミの殻ほどの茶杯に、次々と注がれる烏龍茶に圧倒されながら、台湾にはこんなに良い趣味があったのかと感心していると、「これは南投県の鹿谷(ルークー)という土地の茶でね。そこの茶はとても今評判が良いのだよ」
 おじさんは戦前生まれの人らしく、台湾の地名を、日本時代風の読み方で言う。
「今回の旅では無理だろうけど、次に台湾に来る時は、鹿谷あたりにも足を伸ばすといいよ。わたしは先日友だちの車で、鹿谷に直接行ってね、農会(農協)の販売所でこれを買って来たんだ」
 おじさんが見せてくれた茶の袋には鹿谷農会のシンボルマークや中華民国暦による年号と春季茶展售会や、凍頂烏龍茶の文字がある。
「戦後の貧しい時代からつい近年まで、台湾の庶民にとってはね、茶は縁遠い飲物だったんだよ。もともとは輸出品で、台湾には収入の道だったから、国内の消費は少なかった」