モリッツ・グロスマン あるマイスター時計師が語る半生とグラスヒュッテ高級時計産業の歩み

2016.12.02

チェコとの国境に近いアルテンベルグ市ガイジングの見晴らし台は、エルツ山地で育ったシュナイダー氏のウォーキングコース。夫人が焼いてくれたレモンケーキは、実家に伝わる秘伝の味。なおシュナイダー氏自身は、意外にも“レシピの決まった料理”は苦手らしい。

 この頃のランゲでは、ロルフ・ラングがヒストリカルピースの修理を担当していました。本社がリノベーションした際にフェルナー社が修理した塔時計の管理もラングが行っていましたが、彼が退職した後は私が引き継ぎました。ところがこの時計はときどき止まったり、間違った時間に鳴ったりしていたのです。設計部門にいて手を動かすことに飢えていた私は、約120kgもの振り子を持つこの時計をすべて解体し、さまざまな人から情報を集めて、やっと正確な調整をすることができました。

 私は当時、趣味でヤマハのSR500に乗っていたのですが、2001年に大事故を起こしてしまい、8カ月も自宅療養することになってしまったのです。やっと歩けるようになった頃、この機会に自宅を工房に改装しようと思い立ちました。ある日、鉄道駅や工場の廃棄物管理をしていた知人から連絡があり「駅の廃棄物コンテナの中に大量の時計がある」と言うのです。それはなんと1880年にスイス・ヌーシャテルのマテウス・ヒップ社で作られた電子式の秒振り子時計だったのです。これがきっかけで、フランスのATOや、GUBのエレクトロクロンなど、電子振り子時計のコレクションが増えていきましたね。なおランゲの設計部門で最後に手掛けた仕事は「ランゲ・ツァイトヴェルク」(発表は2009年5月)でした。

 2009年からのモリッツ・グロスマンでの仕事については、『クロノス日本版』でも何度も記事にしていただいているので、ここでは特にお話ししません。しかしハウプトシュトラッセ(中央通り)にあったグロスマンの旧社屋で、ファーストモデルの「ベヌー」に取り組んだ1年間は、私にとって特に充実した時間でした。ムーブメントの設計はともかく、“針をどうするか”といった問題に経験のなかった私は、真剣に悩んだものです。その際に、GUB時代の教え子だったマティーナが、素晴らしいアイデアをたくさん出してくれて、解決できたのです。本当に良い思い出ですね。

シュナイダー氏のもうひとつの趣味はバイク。1951年製のDKWは、西ベルリンの教習所で登録された車体を自身でレストアしたもの。シュナップスを毎日、ビールは黒、アブサンには砂糖なしがお気に入り。インスピレーションの源は、“お腹の感覚”なんだとか。