失速する時計市場。だが、オークションの現場はそうではない。コレクターの購買意欲は衰え知らずであり、競りは白熱に包まれている。伝統工芸の結晶、あるいは技術革新の極致と呼ぶべき腕時計。それらにこそ、目利きのコレクターは資金を注ぐ。ボナムズ香港で時計部門を率いるシャロン・チャンが、実際の取引事例を通じて語る「真に価値ある腕時計」の現在地とは?
Text by Sharon Chan(Bonhams Hong Kong)
[2025年6月16日掲載記事]
価値ある腕時計に集中する買い手たち
ここ2年ほど、腕時計ブランドや業界関係者と業績について話すたびに、決まって憂い混じりの口調で始まり、最後はため息で締めくくられる。国内外のメディア報道やスイスの輸出統計データを見ても、市場の停滞を示す声が絶えない。
しかし、腕時計のオークション市場に目を向けると、まったく異なる光景が広がっている。競り合いは相変わらず白熱し、コレクターの購買意欲は衰えていない。時計オークションの専門家として、筆者は肌身でそれを感じている。買い手が金を惜しんでいるわけではない。むしろ、より聡明になり、真に「価値ある腕時計」へと資金を集中させるようになったのである。
工芸技術の粋、リシャール・ミル「RM 47 トゥールビヨン」
筆者が最近手掛けたプライベートセール。その対象は、リシャール・ミル「RM 47 トゥールビヨン」のサファイアクリスタル製ケースを採用したモデルだ。この腕時計の現在の市場価格は、2700万香港ドル(約4億9680万円、1香港ドル=18.40円、2025年6月16日現在、以下同)を優に超える。それほどの高額にもかかわらず、多くの顧客が熱心に取り引きに応じてきた。理由は明白だ。このモデルは稀少性に加えて、卓越した伝統工芸と文化的価値が融合しているからである。

手巻き(Cal.RM47)。19石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約72時間。サファイアクリスタルケース。
文字盤中央に配置された18Kイエローゴールド製の侍甲冑は、ピエール=アラン・ロズロンが彫金を施し、妻のヴァレリー・ロズロンが彩色したもので、史料に基づき鷹の羽の家紋や装飾が緻密に再現されている。甲冑は11のパーツで構成され、彫金には約16時間、そして焼成工程も含めて約9時間掛けている。手作業により色を幾度も重ねて焼き上げ、日本の武士道精神を見事に表現した。
さらに特筆すべきは、これらの金属工芸がムーブメントの一部として彫られたものではなく、独立した構造体として仕上げられ、機構内に「鎧」としてはめ込まれている点だ。サファイアクリスタル製ケースによって、こうしたディテールをどの角度からでも鑑賞できることも、この腕時計の稀少価値を一層高めている。
RM 47 トゥールビヨンのように、伝統的な技法の粋を取り入れた腕時計は、トップコレクターたちから高い評価を受けている。他方、時計製造における技術革新の申し子のような腕時計も、コレクターたちの注目の的だ。ボナムズのオークションに出品された腕時計から、ウブロ「MP-05 ラ・フェラーリ」とリシャール・ミル「RM UP-01 フェラーリ」を紹介しよう。どちらのモデル名もフェラーリを冠している。
約50日間のパワーリザーブを誇るウブロ「MP-05 ラ・フェラーリ」
ウブロのMP-05 ラ・フェラーリは、時計業界における技術革新の象徴的なモデルだ。11個の香箱を直列に連結することで、約50日間という驚異的なパワーリザーブを実現している。この構造を機能させるには、各香箱からのトルクを平均化する差動装置が不可欠であり、安定した精度を維持するための工夫が随所に施されている。

手巻き(Cal.HUB9005)。108石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約50日間。Tiケース(縦60×横51mm)。63万9000香港ドル(約1175万7600円、バイヤーズプレミアム含む)にて落札された。
また、縦型のローラーディスプレイによる時刻表示は、従来の機構伝達方式を用いることができなかったため、ブランドは新たに垂直の動力伝達軸を開発。わずか5cm足らずのケース内に、自動車のエンジンのような複雑な構造を組み上げたこのモデルは、構想から組み立てまで、高度な計算と精緻な技術の結晶である。
世界最薄級、厚さ1.75mmのリシャール・ミル「RM UP-01 フェラーリ」
技術的特異点となった腕時計をもう1モデル紹介しよう。リシャール・ミルRM UP-01 フェラーリは「最薄」を目指した。その厚さはなんとわずか1.75mm。伝統的な時計製造の限界を突破した腕時計だ。この「薄さ」を実現するために、製作チームは多数のプロトタイプを製作し、理想的な構造と部品の配置を追求した。
手巻き(Cal.RMUP-01)。23石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約45時間。Tiケース(縦39×横51mm、厚さ1.75mm)。10m防水。世界限定150本。800万5000香港ドル(約1億4729万2000円、バイヤーズプレミアム含む)にて落札された。
製作チームはこの極めて薄い腕時計を製作するにあたって、一般的な腕時計製作における常識をすべて見直したうえで設計を行なった。その範囲は輪列の配置から部品の形状、すべてが刷新されたのである。
例えば、アンクルの剣先(ガードピン)は、その代わりに新設計のアンクルヘッドを採用することで同機能を確保。また、香箱には真(軸)を用いず、外周部分をベリリウムカッパー製のブッシュで支えるという機構を用いた。そうして、厚さわずか1.18mmの香箱が完成したのだ。
この設計では、一般的なリュウズは使えない。そこで、文字盤上にディスクを設け、巻き上げや時刻調整を行う専用ツールで操作する仕組みとなっている。デザインはただ薄いだけでなく、5000G耐衝撃性も備えており、RM UP-01 フェラーリは高度な技術の結晶であると同時に、日常使用にも耐える腕時計でもあるのだ。
超高額でも支持される価値
このような真に価値のある腕時計は、たとえ高額であったとしてもコレクターは決して見逃さない。今日の時計市場においては、単なる話題性ではなく、人の心を動かす本質的な価値を持った作品こそが真の勝者となるに違いない。
著者「シャロン・チャン」プロフィール
シャロン・チャンは、アジアにおけるボナムズ時計部門のディレクターである。香港を拠点に、アジア太平洋地域の事務所と密接に連携し、同部門が年に10回開催するオークションの監督を務めている。

シャロン・チャンは、ボナムズに入社し、オークションビジネスに復帰する前の2017年から18年の間に、個人でウォッチディーラーとクライアントコンサルタントを行い、専門家としてのキャリアを築いた。その豊富な経験から、世界中のコレクターとの間に強力なコネクションを持ち、アジアにおける腕時計市場拡大において重要な役割を担っている。
これまで多くの国際的なオークションハウスでのジュエリーと時計のオークションビジネスにおいて、17年以上の経験を積み、2011年から16年にかけては、香港で時計オークションを指揮。売り上げを年々拡大し、13年にはアジアでの時計販売で最高額を達成した。また、世界最大級のプライベートウォッチコレクションの監督責任者を務め、15年のオークションで600万USドルという新記録を打ち立てた。