2025年春に開催された「ウォッチズ&ワンダーズ ジュネーブ 2025」で大きな話題となったのが、ジャガー・ルクルトが発表した「レベルソ・トリビュート」のコレクションに属する数々の新作であった。その開発を指揮した開発部門ディレクターの日本人時計師・浜口尚大氏。久々に来日した彼に、開発に関わる話を聞いた。

1977年、山口県生まれ。時計専門誌に掲載されたスイス時計学校の記事を読み、時計師を目指しスイスに渡る。ル・ロックルの時計学校を卒業後、ルノー・エ・パピ(現マニュファクチュール・デ・セニョル)に入社。2008年にオーデマ ピゲに移籍し、その後、パルミジャーニ・フルリエ系列のムーブメント製造会社ヴォーシェ・マニュファクチュール・フルリエを経て、19年にジャガー・ルクルトの開発部門ディレクターに就任。
Photograph by Yu Mitamura
名畑政治:取材・文
Text by Masaharu Nabata
竹石祐三:編集
Edited by Yuzo Takeishi
[クロノス日本版 2025年7月号掲載記事]
デザイナーの要求と開発者とのせめぎ合いこそジャガー・ルクルトらしさであり、強み
スイス有数のマニュファクチュールであるジャガー・ルクルト。メゾンを代表するコレクションが反転式ケースの「レベルソ」である。先ごろ開催されたウォッチズ&ワンダーズ ジュネーブ 2025では、このレベルソの新作が大きな話題を提供した。その興奮冷めやらぬ2025年4月、ジャガー・ルクルトの開発部門でディレクターを務めるひとりの時計師が来日した。それが長年スイス時計界で活躍する浜口尚大氏。これまで有名ウォッチメゾンを渡り歩いてきた浜口氏は19年、ジャガー・ルクルトに入社し、現職に着任した。彼は、数ある新作の中でもハイライトのひとつとなる「レベルソ・トリビュート・ミニッツリピーター」について次のように説明する。

手巻き(Cal.953)。72石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約48時間。18KPGケース(縦51.1×横31mm、厚さ12.6mm)。3気圧防水。世界限定30本。参考価格5016万円(税込み)。
「基本的にレベルソは特殊な時計であり、設計の方法論も非常に変わっています。なぜならムーブメントが長方形ですから。通常の円形であれば歯車をムーブメントの端まで置けますが、角型では、四隅に歯車を置くことはできません。したがって同じ面積で同じ機能を詰め込むには工夫が必要となります。第二の問題は両面表示。裏側にも文字盤があり針を付けるので、どうしても厚くなります。そこで厚みを抑えようとしても工夫の余地がない。つまり、角型ムーブメントを作るノウハウがなければ、腕に着けられる厚さの許容範囲に入る時計が作れないのです。しかも、この新作はリピーターを搭載し、ギヨシェ文字盤をエナメルで仕上げているので、文字盤が通常の約2倍の厚さになります。これを含め、全体の厚さをどこまで抑えられるかが課題でした。ただ、薄くすればするほど時計としての信頼性は落ちるので、常ににそのせめぎ合いでした」

もうひとつのトピックである「レベルソ・トリビュート・ジオグラフィーク」についても、特にケース裏側の製作は一筋縄ではいかなかったようだ。
「このモデルはデザイン担当からの要望が厳しかった。彼らは『裏側の地図をケースバックの一部に見える設計にしてほしい』と言うのです。チームの設計者は、裏蓋にサファイアクリスタルを嵌め込んでその裏からメタルを蒸着する手法を提案したのですが却下されたため、私は裏蓋のサファイアクリスタルを削り、そこに薄いメタルで作った地図を嵌め込む手法を編み出しました。その結果、レベルソらしさを表現することができ、満足のいく仕上がりになったと思います」

手巻き(Cal.834)。18石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約42時間。SSケース(縦49.4×横29.9mm、厚さ11.14mm)。3気圧防水。330万円(税込み)。
ジャガー・ルクルトらしい手の込んだコンプリケーションモデルが用意される一方、「レベルソ・トリビュート・モノフェイス・スモールセコンド」も豪奢かつ繊細な表情が目を引く。
「このミラネーゼリンクブレスレットは、いかにジャガー・ルクルトが完璧主義かということの証明です。デザイン責任者が要求したのは、まるでケースに溶接したかのようにブレスレットが一体化したもの。ミラネーゼがケースに接する部分はとても薄く、隙間なく組み合わせるのは非常に難しいのですが、このモデルではラグのバネ棒が嵌まる穴の位置を再検討し、ミラネーゼがぴったり収まるよう修正しました。しかも、その穴位置でも革ストラップが問題なく取り付けられるようになっているのです」

確かに、ブレスレットはケースに密着しているため、一体構造のように見える。しかも、きめの細かな極薄メッシュなので装着感も極上だ。
移籍して今年で6年。数々のマニュファクチュールを渡り歩いてきた浜口氏にとって、ジャガー・ルクルトの神髄とは何であろうか?

手巻き(Cal.822)。19石。2万1600振動/ 時。パワーリザーブ約42時間。18KPGケース(縦45.6×横27.4mm、厚さ7.56mm)。3気圧防水。642万4000円(税込み)。
「ひと言でいえばムーブメント開発における基礎体力が高い。他のブランドでは製造面の制約から、新規のムーブメントを開発する際に妥協せざるを得ないこともあります。例えば、ジャガー・ルクルトではテンプや脱進機などの部品も自社製造ですから、従来とは異なる径のテンプが必要となれば新規に開発できます。また、ジャガー・ルクルトは、ひとつ屋根の下に180もの職種を抱えていますが、そんなマニュファクチュールは、おそらく当社だけでしょう。これが基盤にあるのでコンプリケーションにしてもシンプルなモデルにしても設計の自由度が高いのです。おそらく、技術力では頂点にいるのではないでしょうか」
10代で時計師を目指してスイスに渡り、今年で48歳を迎える浜口氏。いわば円熟期を迎えた彼にとってジャガー・ルクルトとは、彼の思い描く理想の時計を現実のものとするための最上の舞台なのである。