30年以上にわたって時計業界を取材してきたジャーナリスト菅原茂氏による、webChronosでの連載「スイス時間旅行−追想の90年代」。第7回は、現在ではIWCを代表するコレクションへと成長した「ポルトギーゼ」について、その初期モデルからベストセラーモデル、そして永久カレンダー搭載モデルへと拡充されていった軌跡をめぐる。実際に菅原氏が1990年代に購入した「ポルトギーゼ・オートマティック・クロノグラフ」のディテールカットや、今となっては問題になりそうなキャッチコピーの広告カットとともに、現在とはイメージの違う、当時の同コレクションの歴史に思いを馳せたい。
Photographs & Text by Shigeru Sugawara
[2025年6月27日公開記事]
クロノグラフの「ポルトギーゼ」と出合う
「ポルトギーゼ」の実物を初めて見たのは1995年のバーゼル・フェアだ。この年は「パイロット・ウォッチ」をフィーチャーした前年とは違い、「ダ・ヴィンチ」の10周年を祝う「ダ・ヴィンチ・ラトラパント」を主役にして複雑機構に焦点を当てたIWC。そのひとつが「ポルトギーゼ・ミニッツリピーター」だ。しかし同じ「グランド・コンプリケーション」や「イル・デストリエロ・スカフージア」、そして「ダ・ヴィンチ」の洗練されたモダンデザインに比べると、「ポルトギーゼ・ミニッツリピーター」は、懐中時計ムーブメントを搭載して1993年に発表された125周年記念モデルと同様に、いかにも野暮ったい感じがして、正直あまり興味が湧かなかった。
逆にこれはなんだ! と目が釘付けになったのが「ポルトギーゼ・クロノ・ラトラパント」(当時名称)である。大型腕時計という「ポルトギーゼ」のコンセプトを基本にしながらも、この年の「ダ・ヴィンチ」同様にスプリットセコンドを搭載したモデルだ。スプリットセコンドは、1992年から「パイロット・ウォッチ」の「ドッペル・クロノグラフ」に搭載されており、ETA7750のモディファイおよびモジュールのアレンジによってブランド独自の複雑時計を作り上げるのは1980年代後半からIWCが用いてきたまさしく得意技だった。

空の世界を海の世界に転用?
それにしても、航空機のパイロット用に考案されたスプリットセコンド機能を海の世界の「ポルトギーゼ」に転用するという発案はけっこう挑戦的である。精密な複雑機能と並んで注目したのがインダイアルのレイアウトだ。縦に整然と並ぶ12時位置の積算計と6時位置のスモールセコンドがなんとなく伝統的なマリンクロノメーターを思わせるのだ。あくまでも「なんとなく」のサジ加減ではある。戦前のオリジナル「ポルトギーゼ」がポルトガル人や航海に関連しているからそうなのか、バーゼル・フェアでの取材ではデザインについての詳しい説明はなかったが、たんに縦3つ目のETA7750から12時間積算計を省いたら都合よくそうなったわけでもあるまいが、結果として機能とデザインが絶妙に調和したのは間違いなく、最初からこれ以上手を加えずに済む「完成形」を実現したと言えるだろう。
段階を踏んで誕生したベストセラー
最初の「ポルトギーゼ・クロノ・ラトラパント」は18Kローズゴールド仕様で発表され、翌1996年のバーゼル・フェアでプラチナとステンレススティールの各モデルが加わった。1997年は一段と興味深い。IWCファンが多い日本に向けて「ポルトギーゼ・クロノ・ラトラパント」の日本限定モデルも特別に作られたのだ。ケースはステンレススティールで、ケースバックがシースルー、おまけに2本のクロノグラフ秒針をブルーとレッドに色分けするというマニアにはたまらないレアな仕様である。そして話題になったのは、スプリットセコンド機能を除外し、よりシンプル化した「ポルトギーゼ・クロノ・オートマティック」(当時名称)の登場だ。同じくETA7750をモディファイした巧妙なアレンジムーブメントのIWCキャリバー79240だが、手巻きに改造してスプリットセコンド機構を組み込んだキャリバー76240をここではもとの自動巻きに戻している。ちなみに1997年当時の価格は18Kホワイトおよびローズゴールドが各135万円、ステンレススティールモデルは約半額の65万円だった。市場の反応を見て計画的にリリースするIWCの戦略は大成功。これによって、現在に続く定番の系譜が築かれることになったのだから。
女性たちよ、手を出さないでくれ!
「ポルトギーゼ・クロノ・ラトラパント」には発表当初“アイアンレディ”というニックネームがあった。これが「鉄の女」とはどういう発想なのだろうか。意図してなのかは不明だが、メカ好きの男性のみならず、最初から女性もターゲットだったのだろうか。それを裏付ける証拠がある。続く「ポルトギーゼ・クロノ・オートマティック」の当時の広告にこんなドイツ語のキャッチコピーがあった。《Frauen rauchen unsere Cohiba. Sie fahren unsere Harley. Trinken unseren Lagavulin. Lasst uns weningstens unsere IWC!》。直訳すると「女性たちは我々のコヒバを吸う。彼女は我々のハーレイを運転する。我々のラガヴーリンを飲む。せめて我々のIWCには手を出さないでくれ!」。ここでいう我々とはもちろん男だ。現代の女性たちは、男たちと同様に葉巻、バイク、スコッチを楽しみ、次に狙っているのはIWCの時計というからユーモアたっぷりで笑わせる。

直径40.9mmの大型ケースで、しかもクロノグラフ付きのこの時計がその後ファッション感度の高いヨーロッパの女性たちの間で人気を博すことになったのだから実におもしろい。かつて、IWCの海外イベントでスタッフやゲストの女性たちの多くが色とりどりのストラップを付けて楽しんでいたの見て、その手があったかと感心した。もともと付属する黒いストラップをカラフルなストラップに付け替えるだけで、硬派のメンズウォッチからお洒落なレディースウォッチに変身するのだから不思議。クロノグラフがまた、知的で活動的な女性のイメージを醸すアクセントになったのではあるまいか。
最高峰の永久カレンダーへと進化
さて、最後にその後の進化について少し付け加えておこう。1990年代後半にクロノグラフ以外の3針や2針スモールセコンドの自動巻き小型モデル「ポルトギーゼ」も発表されたが、地味で物足りないデザインゆえか、人気がなかったと記憶する。クロノグラフに続いて脚光を浴びたのは、ペラトン自動巻き、シングルバレルで約7日間パワーリザーブを特徴とする大型の自社製ムーブメント、キャリバー5000を搭載して2000年に登場した「ポルトギーゼ・オートマティック2000」(当時名称)である。昨年、現代的アップデートを図ったあの人気モデルの原点である。そしてもうひとつが、2003年発表の「ポルトギーゼ・パーペチュアル・カレンダー」だ。自社製キャリバー5000をベースにして、IWCのアイコニックな永久カレンダーを加えた野心作。当時のジュネーブサロン(SIHH)で、クルト・クラウス氏がモデルを手にして熱く語っていたことが思い出される。その流れが2024年の「ポルトギーゼ・エターナル・カレンダー」という比類なき超大作へとつながっているのは実に感慨深い。


菅原茂のプロフィール

1954年生まれ。時計ジャーナリスト。1980年代にファッション誌やジュエリー専門誌でフランスやイタリアを取材。1990年代より時計に専念し、スイスで毎年開催されていた時計の見本市を25年以上にわたって取材。『クロノス日本版』などの時計専門誌や一般誌に多数の記事を執筆・発表。時計専門書の翻訳も手掛ける。