近年、時計市場に普及する“新素材”。外装やムーブメントに従来にはなかった素材を用いることで、時計は形状や色といった意匠の面ではもちろん、性能面でも大きく変化した。『クロノス日本版』112号で「時計を変えた新素材」として、そんな“新素材”を特集した記事を、webChronosに転載する。今回は精密かつ立体的な形状のパーツ製作を実現し、ムーブメントを大きく進化させたLIGAプロセスを取り上げる。
Photographs by Takeshi Hoshi (estrellas)
広田雅将(本誌):取材・文
Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
Edited by Hiroyuki Suzuki
[クロノス日本版 2024年5月号掲載記事]
機械式時計のパフォーマンスを上げたLIGAプロセス
機械式時計のパフォーマンスを大きく向上させた要素がふたつある。ひとつはすでに述べた、脱進機などに使われるシリコン。そしてもうひとつが、LIGAプロセスで製造された機能部品である。シリコンほど分かりやすくはないが、弾性のある金属部品を作れるLIGAプロセスは、今や基幹ムーブメントにまで普及しつつある。
LIGAプロセスの採用で進化するムーブメント
かつて機械式時計の部品を製造する方法は、鍛造か切削しかなかった。1970年代後半以降は、そこにワイヤ放電加工が加わり、時計メーカーは、かつては考えられないほどの精密な部品を手にできるようになった。

LIGAプロセスで製造される歯車の採用で、パフォーマンスを大きく高めた基幹ムーブメント。基本設計はCal.324 S Cに準じるが、精度や整備性はさらに向上した。ローターのノイズも極めて小さい。自動巻き。30石。2万8800振動/時。パワーリザーブ最大約45時間、最小約35時間。
そこに新しく加わったのがLIGAプロセスだ。これは鍛造でも切削でもなく、メッキを重ねて部品を作るというもの。精密な部品が得られるのはシリコンに同じだが、立体的な形状を作りやすい点が異なる。また、製法が特許で固められていないため、採用しやすいことも大きな福音だった。意外な美点もあった。あるメーカーの技術者は「シリコンなら文句を言われるが、LIGAで作られたニッケル-リン合金製の脱進機に文句を言う消費者はいない」と筆者に漏らしたのだ。つまり、シリコンに拒絶反応のある消費者にも受け入れられやすいというわけだ。
立体的な形状を再現できるというLIGAの強みを活かしたのが、先端にバネ性を持たせた歯車やカナである。歯車自体にバネ性を持たせれば、動きを規制するためのバネ類が不要になる。結果、面倒なバネの調整がなくなった他、テンプの振り角なども設計値に合わせやすくなる。つまり、性能のバラツキを抑えやすくなるのだ。

ブライトリングの傑作ムーブメントも、現在クロノグラフ機構にLIGA製の歯車を採用している。規制バネが不要になったため、クロノグラフを作動させても振り角はほとんど不変である。自動巻き。47石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約70時間。
時計業界にLIGAプロセスを普及させたのは、アジェノーを創業したジャン・マルク・ヴィダレッシュだった。彼はレトログラードの挙動を安定させるため、LIGAプロセスで作られた弾性のある部品を用いるようになった。後に彼は、歯先を割ることで歯車自体に弾性を持たせるというアイデアを思いつき、LIGAプロセスとともに時計業界に普及させたのだ。
当初、LIGAを採用したのは、アジェノーやラ・ファブリク・デュ・タンといった、野心的な小工房に限られていた。ローラン・フェリエと共同開発したマイクロローター自動巻きに、いち早くLIGA製の脱進機を採用したのは後者だ。当時設計に携わったエンリコ・バルバシーニはこう語る。「LIGAプロセスのおかげで、精密な脱進機を作れるようになった。また素材がニッケル-リン合金のため、鋼よりも軽かった」。古典的なナチュラル脱進機は、新技術がなければリバイバルしなかったのである。
現在、LIGAプロセスで作られる部品は、大メーカー製のムーブメントにも見られるようになった。クロノグラフに用いることで、パフォーマンスを高めたのはロレックスとブライトリング、そしてウブロである。歯車自体に弾性があるため、これらのムーブメントはテンプの振り落ちが少なく、水平クラッチでも、クロノグラフのスタート時に針飛びを起こしにくい。

高効率のナチュラル脱進機を持つマイクロローター自動巻き。ガンギ車をLIGAで成形することで、極めて精密な部品を実現できた。また、アンクルを軽いシリコンに変えることで振り角を高めている。自動巻き。35石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約72時間。
また、ジャガー・ルクルトやパテック フィリップなどは、輪列にLIGA製の歯車を加えることで、秒針の動きを安定させた。さらにパテック フィリップは、アドバンストリサーチにLIGA製の部品を用いることで、トラベルタイムの機構をシンプルにまとめ上げたのである。ちなみにこれも、先述したコンプライアント機構のひとつだが、純粋な金属部品なのである。シリコンを好まない時計メーカーは、今後LIGAプロセスを用いて、コンプライアント機構を手掛けるに違いない。

強固なフライバック機構を持つUNICO。第1作のHUB1242と、後継機のHUB1280は、クロノグラフ中間車にLIGA製の歯車を採用する。弾性があるため、クロノグラフの作動時に針飛びが起きにくい。自動巻き。43石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約72時間。