日本からアメリカへの輸出品の関税が15%で合意した今、時計業界の関係者にとって気になるのは、スイス時計に対するアメリカの関税率。8月から、とんでもないことになっている。これは、スイス時計業界の存亡を、そして時計産業で働く人たちの生活を左右する大問題だ。
Text by Yasuhito Shibuya
[2025年10月2日掲載記事]
なぜ!? 理解不能な4月の31%を超える「39%」
2025年4月2日(スイス現地時間)、開催中であったウォッチズ&ワンダーズ ジュネーブ(W&WG)を直撃し、時計ブランド各社のCEOの顔を曇らせたのが、アメリカ大統領のドナルド・トランプが発表した関税政策だ。勝手に、かつ一方的に、スイス製品のアメリカへの輸出に対して「31%」の関税をかけると言い出した。そして暫定税率として、10%を即座に適用した。
直後からスイス政府はケラーズッター大統領兼財務大臣を担当者に交渉を開始。これまでの情報では、数カ月にわたる交渉の結果、共同宣言の草案が作られ、間もなく妥結という話だった。それが晴天の霹靂、寝耳に水、藪から棒に、真逆の話になった。何と4月の31%に+8%、他国と比較しても異常に高い39%の関税をかけると一方的に宣言されたのだ。
スイス政府にとって、これはおそらく「裏切り」に近い事態だったようだ。スイス放送協会の国際メディア「SWI swissinfo.ch」や「Bloomberg」の記事を読むと、直前まで財務大臣はホワイトハウスと電話会談を行っていたというし、スイス財務省のスポークスマンは、通信社からの問い合わせに「この関税率は、過去数カ月間のスイスと米国の間の集中的な議論の結果作られた共同意向宣言の草案から大幅に逸脱している」と回答したという。
スイス国内の機械・電気産業界を束ねる最大の業界団体であるSWISSMEM工業会は8月1日、米国のスイスに対する39%の輸入関税について声明を発表した。その中でシュテファン・ブルプバッハー理事長は、「驚愕している。これまでの交渉が、米国大統領の一貫性のない決断によって阻まれた。この決定は数万人の産業雇用を危険に晒す」とは指摘した。同時に声明は、2025年初頭から米ドルがスイスフランに対して10%下落していることもあり、スイスに課される関税は、競合国の関税の数倍に上るとし、その結果、スイス技術産業の受注量の平均10~15%を占める対米輸出は、短期から中期的に消滅する恐れがあるとしている。「企業は、例えば、関税が大幅に低いEUなどへの海外移転を余儀なくされるほか、多くの中小企業がアメリカ市場を完全に失うことになる」。
無類の“時計好き”のトランプがなぜ!?
ドナルド・トランプやトランプ一家はロレックスを筆頭にスイスの高級時計が大好きだと言われているし、トランプ・ジュニアも含めてロレックスを着用している姿がたびたびメディアに掲載されている。トランプ政権のNo.2であるマルコ・ルビオ米国務長官は「トランプは不動産業者である父親から財産を相続していなければ、マンハッタンで時計を売っていたに違いない」と明言しているらしい。トランプは昨年、MAGAコード付き時計のシリーズに自身の名前と署名を貸与した。その中にはゴールドケース&ブレスレットの10万ドルの「スイス製」トゥールビヨンもあった。だからスイスの時計関係者の中には「トランプは時計好きだから、何とかなるかも」という希望的な観測をしていた人々も少なくない。

関税率10%には何とか耐えてきたが……
筆者はアメリカの時計販売関連のサイトをときどきチェックしている。あくまで筆者の印象だが、現時点では、多くの高級時計の販売価格は4月1日の相互関税発表前とあまり変わっていないようだ。
なお、W&WG期間中に関係者に聞いたところによると、スイスの時計ブランドの多くは、対米輸出品を急いで出荷したと考えられる。なぜならスイス時計協会FHの発表では、2025年4月の対米輸出は8億5190万スイスフラン(約10億6700万米ドル)、前年比+149.2%を記録したためだ。つまり今年の4月、2024年の約2.5倍の金額の時計がアメリカに輸出された。通関に遅延などの問題がなければ、この出荷分は関税率10%で輸入できたはず。値上げが目立たないということは、アメリカ法人や代理店がそれ以前に輸入された在庫分を販売しているほか、この10%分の関税を企業努力で吸収してきたのだと思う。
だが、今回の“関税イジメ”がそのまま一方的に実施されれば、もはやアメリカ市場での販売価格の値上げ、それも20%程度の値上げは避けられないだろう。高級時計市場のマーケティングコンサルタントとして有名なオリバー・R・ミュラーはブルームバーグのインタビューで「小売価格は12~14%上昇する可能性が高い」と述べている。
根拠不明の39%、無法な“関税イジメ”
それにしても、なぜ8%も関税率がアップしたのか? 理由は不明だ。そもそもトランプ関税にはまともな根拠などない。トランプが相手国に一方的に関税をかける理由は「貿易赤字を減らすため」。しかし、貿易や国際経済について高校生レベルの知識があれば、貿易赤字が相手国の不正のせいではないことがすぐに分かるはずだ。まず問題にしなければいけないのは「輸入しているアメリカ」の方だ。
この「39%の高関税」の背景には、スイスからの年間総輸入額約630億ドルで生じた約380億ドルの赤字、なかでもその半分を占める医薬品の赤字に対するトランプ政権の「怒り」があるという。つまりスイス時計業界は製薬業界のとばっちりを食ったとも言える。
だがスイスによれば、アメリカへの投資ランキングは全世界で7位と決して少なくない。しかもこのトランプ大統領の「難癖」に対応するため、スイスの製薬会社ロシュ・ホールディングスとノバルティスは約700億円による、アメリカへの研究開発などの投資を約束した。それでも、トランプ政権は満足しなかった、ということだろう。
日本に対する15%の関税もそうだが、これは支離滅裂な“イジメ”でしかないし、スイス時計のアメリカ市場での売り上げは確実に減る。トランプ関税には世界中が困惑し、怒り、呆れているが、スイス時計界はその中でも最もひどいイジメに遭ってしまったのだ。
8月1日(金)はスイスの建国記念日で祝日だったため、スイスの株式市場は休場。その代わりにロンドン株式市場では、ロレックスの大手販売店チェーン、ウォッチズ・オブ・スイスも株価が9.2%も下落した。8月4日(月)に開いたスイスの株式市場でも時計関連銘柄は軒並み株価が下落している。
未曾有の災難の終わりはいつ?
スイスの輸出産業は39%によるトランプ関税が適用される前も、10%の暫定税率で大きな影響を受けてきた。5月には、アメリカへの輸出は前月比で25.3%急落して26億8000万スイスフラン(約33億5600万米ドル)となった。これは2020年末以来の最低金額だ。スイス時計業界の人々は、未曾有の天災(実際は人災だが)に見舞われている気分だろう。しかもスイス時計業界は今、このトランプ関税に加えてもうひとつの手強い敵、それに匹敵する敵と闘っている。その敵とは、スイスフランの為替相場のかつてない高騰だ。対円レートで2025年9月下旬には、何と187円台に突入した。現時点では184円台にあるが、円安スイスフラン高の定着は確定的だろう。先行き、この相場が続く可能性が非常に高い。スイス時計業界にとってはまさに「泣きっ面に蜂」の状態にある。日本のあるスイス時計輸入代理店の関係者は「1スイスフラン=200円との想定が今や必要だ」と語ってくれた。
この状況のまま、関税発動からついに2カ月が過ぎてしまった。スイス時計業界にとっては、依然として辛い日々が続いている。ただ合理的な理由が見当たらないだけに、また被害と混乱が甚大なだけに、トランプ政権の関税政策が急遽変更される、課税率がいきなり引き下げられる、つまり再交渉で、この関税率が他の国と同様の15〜20%になることも十分に予測できる。ただそうだとしても影響と損害は甚大だ。スイスに対するこの異常な高関税政策がいつまで続くのか? スイスの時計産業がどこまでこの状況に耐えられるのか? とにかく見守るしかない。
著者のプロフィール

渋谷ヤスヒト
モノ情報誌の編集者として1995年からジュネーブ&バーゼル取材を開始。編集者兼ライターとして駆け回り、気が付くと2019年がまさかの25回目。スマートウォッチはもちろん、時計以外のあらゆるモノやコトも企画・取材・編集・執筆中。