クロノセオリー東京の時計師である飯塚雄太郎氏が、実際の作業を通じて時計修理・メンテナンスの重要性を伝える。今回取り上げるのは、IWCの人気パイロットウォッチ「マークⅫ」。発売から30年以上が経過したシリーズのため、消耗品の劣化具合などに大きな個体差が見られるモデルだ。今回の記事は飯塚氏がどんなことを考えながら、修理をしているのかという視点でまとめた。
Text by Yutaro Iizuka
まわれ歯車:動画・写真
Movie & Photographs by Maware Haguruma
[2025年12月11日公開記事]
IWC「マークⅫ」をオーバーホール
今回、メンテナンスを行うのはIWC「マークⅫ」だ。今までの記事は、私が実際にしている修理に関する苦労話などを書いてきた。しかし今回は少し視点を変えて、ユーザーが感じた不具合に対して、実際ムーブメントにはどんなことが起きていたのか、そして技術者は何を考えているのかを少し掘り下げて説明をしてみたい。私が時計に対して何をしたか、というのは動画を観てもらうことにしよう。

メンテナンスは時計の調査から始まる
メンテナンスに入る前に、今回の時計がどんなものなのかをおさらいしよう。
名機と呼ばれる理由
まず、マークⅫが搭載するムーブメントはジャガー・ルクルト製のCal.889がベースだ。ジャガー・ルクルトは1833年の創業以来、1200を超える高精度なムーブメントを作ってきたといわれている。
そして、それらは多くの高級時計メーカーに供給されてきた。精度がよく、信頼性もある機械を作ってきたジャガー・ルクルトの時計師は、“the watchmakers' watchmaker”(時計師の中の時計師)と呼ばれ、製作した時計は“the watchmakers' watch”(時計師の時計)と言われるようだ。
今回はそんなジャガー・ルクルトのCal.889をベースとし、IWCらしいムーブメントC
al.884/2と姿を変えた時計のメンテナンスについて書いていく。お客様からは「最近手に入れた時計で8分の遅れがあり、巻き上げるとパチッという感触もある」と相談があった。およそ30年前の時計の修理までの流れを見てみよう。

預かり時に得られる情報で、修理時の観察ポイントが8割決まる
時計を手に取って最初に目についたのはリュウズに付着した黒いもの。「なんだこれは……」。これを見た時、技術者はいろんなことが頭をよぎるものだ。お客様と話している時なのに思考回路がそこに集中しがちだ。それをこらえて一度頭の片隅に置き、確認作業を進めていく。
巻き上げの感触もお客様の言うようにパチッと滑る感触が手に伝わる。「うむむ。なるほど、なかなか手強そうだ。パーツ屋さんに何件か連絡を取ろう、パーツが見つからなかったら、何人か友人に聞いてみるか、作ることも検討しないとだ、あの工具あるっけ……」。これもまた思考を保留する。
トリチウムの文字盤、針を持つ時計は、その特性からユーザーに不安を与える可能性があるとして、メーカーでは代替品にパーツ交換となることが多い。そういった理由から、トリチウムの魅力や稀少性から交換を避けたいと考えるユーザーは、いきつけの時計修理屋に依頼することが多い。

受付時は時間の許す限り顧客と話をする。どういった経緯で購入したのか、その他機能を使っていて違和感を覚えるかなど、話をしているとお客様が思い出すことも意外と多い。このようなコミュニケーションを大事にしている。これは修理の品質を決める第一歩だと考えるからだ。
ソリッドバックであるから、この状態で分かることは、リュウズの黒いものを除いて、お客様が感じ取ったことがほとんどすべてであった。機械式時計をよく知っている方でないと、もっと後になってメンテナンスとなり、多くの作業や交換パーツが必要となったかもしれない。

マークⅫに起こっていた不具合をまとめてみる
ではここから私が不具合に対して、どのように向き合っているのかを大まかに書いてみたい。本来はもっと細かく見るべきところがあるが大部分を割愛している。

最初に、防水不良である可能性を考える。そもそも防水試験を行ってよい状態か、裏蓋はどのように開けるのか、そもそも開けていいのか。そんなことまで考える必要あるのかと思うかもしれないが、最も基本にして最も大事な要素のひとつなのだ。
防水試験のみに注目しても、ガラスにある僅かな亀裂を見逃したとする。そのまま防水試験で行われる加圧で風防が割れてしまうこともあり得ないわけではない。この破片が文字盤・針への傷になるなど、取り返しがつかなくなるリスクを考えると、石橋を叩くような考え方に納得できるのではないか。

よく観察して、よく考えて、また観察して、作業順序を工夫する。時にはお客様と相談をして進めることをしないと取り返しのつかない事故につながることがあるのだ。リスクのある作業ばかりなので、慎重さは時計師にとって大事な素養かもしれない。時計内部をすべて特殊なオイルで満たしているような時計もある。考えなしに裏蓋を開けた瞬間、取り返しのつかないことが起こることもある。
その恐怖の瞬間に出会ったとき、時計師は3秒間動きを停止する。現実であるかどうかを確認する。これは実話だ。私ではないが、何が起きているのか確認するのに5秒間必要という人もいる。私ではないが。この感覚は誰も味わいたくないものだが、それが時計師として成長へつながるケースは多いということも事実である。

事故に関する話はトラウマを呼び起こすので、これ以上はやめておこう。ここで言いたいこととしては、特に一般の時計屋は、そういったトラブルの可能性が身近にあるという緊張感を持って、常に時計に向き合わなければならない。時計師に求められるスキルがあるとするならば、器用不器用以前に「観察」が最も大事なスキルかもしれない。

不具合のあるパーツについて
今回交換が必要となったパーツを見てみよう。通常のものと比較すると一目瞭然だ。歯車の歯の先がえぐれている。つまり、パーツが変形(摩耗)していることが分かる。ゼンマイ巻上を繰り返していく中で、形状が一部変形してしまった。それに沿って歯が滑ってしまい、噛み合いが外れたものが異音として手に伝わったと考えられる。

このような異常のあるパーツを確認した時、技術者が確実に考えることがある。パーツの入手が可能かどうかだ。ところで、愛用している時計にどのようなムーブメントが使用されていて、そのパーツが手に入れやすいものであるかどうか気にしたことはあるだろうか。
ざっくりではあるが、次のような理解でよいと思う。汎用ムーブメント(自社製ムーブ以外)のパーツや汎用パッキン、円形ガラスなどは手に入れやすい。しかし、自社製ムーブメントのパーツや特殊形状パッキン、ガラスなどは新しいモデルであるほど入手しにくい。

自社製のムーブメントパーツは長い歴史を持つようになると、たまに海外オークションで出品されることがある。しかし、その機会すらも減ってきているし、値段も高騰してきている。
パーツの入手可能・不可能にかかわらず、異常のあるパーツを発見したとき、それをどのように解決するかというのは、修理の難易度を上げるひとつの要因となっている。自社製ムーブメントである場合には特に、時計師としてのポテンシャルが試されることになる。慎重な分解手順の考察を除いて、見積もり時に考えることの大部分は不具合パーツのことである。

今回のジャガー・ルクルトベースのムーブメントCal.884/2も例外ではなく、パーツ入手難易度が高い。永久修理をうたうジャガー・ルクルト製のパーツは総じて、入手しづらいと思って良いかもしれない。今回は歴史も人気のあるムーブメントのため、なんとか見つけ出すことができた。もしも見つからなかったときのために、オリジナルパーツの製作準備も進めておいた。お客様とパーツの値段や作業に関する選択肢を相談して、パーツを購入する方向となった。

ここまで読んでいただいたビンテージ、アンティーク時計愛好家の方は特に、自分の時計に搭載されたムーブメントが何であるかを調べてみてほしい。パーツ入手難易度はかかりつけの時計屋さんに相談してみるといいだろう。調査に時間がかかる可能性はあるが、点検もかねて相談するとよい。きっとメンテナンスを考える上で参考になるはずだ。

巻き上げるとパチっと音がする、原因は?
今度は時計の異常について詳しく考えてみよう。異音がするというのはどういうことか。リュウズから伝わる異音というのは、操作時に手に伝わるさまざまな音の中で、周期的でないもののことを言う。今回の異音は巻き上げ時の異音で、不定期にパチッという音が手に伝わってくるというものだ。

上で見たような歯の変形がなぜ生じるのかを考えるためには、この歯車の振る舞いを知らねばならない。このパーツは、キチ車(winding pinion)と呼ばれ、巻き上げにかかわるパーツのひとつだ。私たちが操作するリュウズと回転方向が同じ、数少ない歯車のひとつ。このパーツの特徴は、それと噛み合う歯車と90度の関係であること、つまりふたつの歯車の回転軸は直角をなす。

この特殊な力の伝達というのは、一般に想像する同一平面上に並んだ歯車のかみ合いよりも歯への負担がかかる。さらにその回転は手の力によって回転させられる。これは1mmにも満たない歯に対して、大きな影響を与える。長年の使用で変形が起きることは理解できるのではないだろうか。
かといって、ムーブメントの厚みもない腕時計の大きさでかつ、90度噛み合いの負荷を軽減するような特殊な歯車を製作するのは、技術的とコストのバランスから、かなり困難である。歯先や形状に工夫が見られる時計は増えてきているように思うが、ダメージの蓄積速度を抑えるに留まっている。

このダメージを使用する上で避けることは難しい。ではユーザーがこういった変形や異音となるようなリスクを下げるにはどうすれば良いだろうか。
それは「使用しない時計のゼンマイを巻き上げない」ことである。機械式時計の動きは、機械好きであるほど興味をそそられるものだが、使用しないのに毎日巻き上げることは避けて欲しい。毎日稼働させるということは、すべての歯車に、フルパワーで仕事をさせるということだから、伴って歯車軸の金属は疲労するし、油も乾いていく。そのため、クロノセオリーに並ぶ時計は止まっているものばかりだ。

自動巻きの時計は、時計が停止状態から使い始めるならリュウズによる巻き上げは最低限(10~15回程度から、自身の活動量によって増やし、自分のライフスタイルに合わせる)にし、リュウズ巻き上げは最低限に止めて使用すると良い。
防水に欠かせないパッキンについて
次に話をしたいものはパッキンのことだ。パッキンは防水時計にとって必要不可欠で、時計の長期間の使用を可能とする大きな存在だ。メンテナンスにて交換することが多いことも特徴のひとつだろう。
パッキンの役割
ここで、もう一度リュウズ付近にあった黒いものに注目してみよう。実はこの正体は、パッキンなのである。長い間交換されることがなかったパッキンの変わり果てた姿なのだ。受付時にこれを見た飯塚は、適したサイズのパッキン在庫を頭で検索しながら、どうやってリュウズ内部まできれいに洗浄しようか、そもそも交換できるようになっているのか? などと考えていた。受付時に考えることではないのだが、つい考えてしまうほどの事件だったのである。

ちなみにパッキンはニトリルゴムという素材で、耐油性、耐熱性、耐摩耗性に優れている。特にゴムであるのに、摩擦に強いという特徴が時計には大変ありがたかった。ほぼ毎日操作しているリュウズ内部ではパッキンは常に摩擦する。これにより、防水性能をすぐに失う可能性があるからだ。ニトリルゴムがない時代のメーカーはここに大変悩まされたのではないかと想像する。

劣化の過程
そんな優秀なパッキンだが、経年劣化はどうしても避けられない。時計がどんなに優秀な防水構造を持っていてもパッキンが劣化しては防水機能は働かない。
ここからは私のパッキン劣化に対する個人的推察だが、紹介しておきたい。
パッキンの劣化は伸縮性を失いだすことから始まる。時計の構造によっては3年程度だろうか。つぶされることで効果を発揮するパッキンは、気密性をじわじわと失っていくことになる。
パッキンの伸縮性が完全になくなると、引っ張るとすぐにちぎれるような状態になる。古くなった輪ゴムと同じだ。最終段階になるとパッキンは溶けていく。これも輪ゴムと同じではないだろうか。アイスクリームのようなサラサラな粘度ではなく、ドロドロかつべたべた、そして金属にこびりつくような状態だ。今回はまさに最大の劣化を迎えたパッキンだったのである。

交換の必要性
最大級の劣化を迎えると、除去は非常に手間がかかる。超音波洗浄機だけではもちろん落ちない。擦りながらであったり、条件次第で薬品を使いながら落としていく。リュウズ内部のパッキンのように手はもちろん、掃除用工具すら届きにくい箇所だと、泣きながら除去作業を行うこととなる。

パッキンがいつこのような状況になるのか、明言することはできない。時計の置かれている環境次第とも言えるからだ。
メーカーや修理屋ではパッキンの状態を確認し、交換を提案する。中でもメーカーメンテナンスでは、リュウズ交換が必須となるところもある。リュウズパッキンの交換、特にリュウズから取り出すことは、動かないタンスの裏の隙間に落ちた1万円札を取ろうするくらい骨が折れることもある。
この難易度と作業時間短縮のため、メーカーの提案するリュウズの交換は非常に合理的かつ効率的な手段といえる。

ムーブメントの感動ポイント
スイッチングロッカーとムーブメントの仕上げ
それでは最後に、私がすごいな、いいなと感動したポイントを紹介して、この長文化した記事を終えたい。
ジャガー・ルクルトのムーブメントでは、スイッチングロッカーの切り替え車にルビーが使われているものと使用されていないものがあるようだ。今回の個体はルビーが使用され、より堅牢な作りになっていることが分かる。ジャガー・ルクルトの仕上げとは異なり、華やかな印象はないが、シンプルな仕上げで力強さがある。
これはこれで時計全体の印象と合っていて、この部分にグッとくる人もいるのではないだろうか。ジャガー・ルクルトの仕上げは「ルクルト 889 ムーブメント」と検索すれば見ることができるので、比較してみると印象がこうも違うのかと面白いだろう。
また、スイッチングロッカーの動きも動画に収めていただいたので、ぜひ冒頭のリンクより見てほしい。

終わりに
普段、ずっと誰かに見られながら、ましてや撮影されながら、作業することはない。2回目の撮影でも、いつもと異なる緊張感があった。
ドライバーの扱いや手の震えをみて、私のメンテナンスに不安を持つ人が現れるのではとも考えた。しかし、メンテナンスに関する解像度が少しでも高くなるならば、記事を書く目的と合致するので恥ずかし気もなく動画を公開することにした(動画自体は大変すばらしいものであることは言うまでもない、私の技術の話である)。

30分弱の動画であるが、およそ3日間ほどの撮影期間となった。撮影を終えたその日にご飯に行こうと約束は毎度しているが、疲労していて、いまだに約束は果たされていない。それほど撮影や作業に真剣に臨んでいた。
毎度文章についても反省している。何度も書いては修正や書き直しを行った。この行ったり来たりの作業は時計修理や製作に通じているようにも思うようになり、より気を抜けなくなり、時間がかかってしまった。
撮影と記事の同時作成はしばらく難しいかもしれない(白目)が、今後も少しずつでも記事をかいて、ユーザーのメンテナンスに対するイメージの解像度が高くなればよいと思う。
最後に、まわれ歯車さんや時計の撮影を許可いただいたお客様に大きな感謝をしたい。
筆者プロフィール
飯塚雄太郎
クロノセオリー在職の時計師。ヒコ・みづのジュエリーカレッジ在学中、2018年の「ウォルター・ランゲ・ウォッチメイキング・エクセレンス・アワード」に参加。A.ランゲ&ゾーネからの課題は「音を使った通知機能を持つ時計製作」。そこでバイメタルを使用した温度計を製作し、ある温度以上になると音で知らせる機能を持たせた。ゴングには香川県で採取でき、石琴に使われるサヌカイトを使用した。製作した時計は入賞。卒業後、修理会社を経て現職。Twitterアカウントは「@khronos_」。ゾンビマスター。GPHGアカデミーメンバー。



