世界初の五大陸最高峰登頂をはじめ、北極圏1万2000kmの犬ぞりによる単独走破、グリーンランド3000km縦断といった輝かしい功績を持つ冒険家、植村直己。彼の冒険において、セイコーが1968年に発表したダイバーズウォッチ、通称“セイコー セカンドダイバー”が携行されたというのは、とても有名な話だ。しかし実際は、セカンドダイバーが「どの冒険に連れていかれたのか?」そして「それは一体どのモデルだったのか?」を明らかにする記録はなく、ちまたではさまざまなエピソードが飛び交っている。これを確かめるべく、今回、モータージャーナリストであり、自身もセカンドダイバーマニアを自認する山田弘樹が、独自の取材を行った。それはまさに、“植村ダイバー”を巡る冒険譚だ。
Text by Kouki Yamada
Special thanks to Tsutomu Sato(ZENMAIWORKS)
[2026年2月23日公開記事]
セイコーウオッチ本社に聞く、植村直己とセカンドダイバー

1968年に登場し、そのタフネスぶりから多くの冒険者たちに愛用された「セイコー ダイバー 61MC」(6105-8000、1970年より6105-8110)、通称“セイコー セカンドダイバー(以下、セカンドダイバー)”。中でも植村直己が「北極圏1万2000km 犬ぞり単独行」にこのダイバーズウォッチを携行し、この腕時計が“植村ダイバー”と呼ばれるようになったのは有名な話だ。
しかしこの伝説は、いつくかの不正確な情報が混在したまま、あやふやに語り継がれている。
それは植村直己が、1974年からあしかけ約1年半にわたって行った「北極圏1万2000km単独行」以外にも、1978年に「北極点単独行」「グリーンランド縦断」という、ふたつの冒険を成し遂げているからだ。そしてこれらの冒険においても、セカンドダイバーが携行されたという記述が、インターネット上ではまことしやかに拡散されている。
果たして植村直己がセカンドダイバーを着けたのは、一体どの冒険なのか?
そしてそのとき着けていたモデルは、セカンドダイバーの中でも、前期・中期・後期型のどれなのか?
このシンプル極まりない問いを確かめるために、筆者は時計専門誌『クロノス日本版』のWEB媒体である「webChronos」編集部の協力を得て、「植村ダイバーを巡る冒険」の旅に出た。
目指した先は、銀座一丁目。東京のど真ん中に居を構える、セイコーウオッチ本社ビルだ。

東京都中央区銀座に位置するセイコーウオッチ株式会社。
取材を前に、筆者とセカンドダイバーの出合いについて
セイコーでの取材を前に、ここでは筆者とセカンドダイバーとの出合いについて、少しだけお話させていただこう。
筆者がセカンドダイバーを手にしたのは、今からおよそ6年程前の、2019年冬のことだった。
つまり、“本物”の方々から言わせれば、筆者がセカンドダイバーに興味を示した時期は、かなり遅いと言えるだろう。その頃のインターネット上でのオールドセイコー界隈には、「昔は(セカンドダイバーは)10万円もしなかったのに」なんて言葉が飛び交っていて、2019年の購入当時よりもずっと安い価格で、程度の良い個体を手に入れられた時代があったのかと思うと、つくづくその魅力に気付くのが遅かったと、ため息をついたものである。

筆者がセカンドダイバーに引かれた理由は、ずばり見た目だ。
いや、むしろ最初は「なんて変テコなデザインなのだ」と思った。
当時まるで時計の知識がなかった筆者には、そのぽってりとした、左右非対称のケースがかなり異様に見えた。
ダイバーズウォッチといえば丸型のアワーマーカーが付いているものだと思っていたから、太い縁取りで四角く成形されたセカンドダイバーのアワーマーカーには、良い意味での威圧感を覚えた。
また、シルバーの線で目盛られたミニッツマーカーは実に飾り気がなく、アラビア数字のインデックスは一切なく、全ては四角と線で表現されていた。ダイアルは反射のないマット地で、この腕時計が計器であることを直感した。
筆者の個体は風防がオリジナルではなく、セカンドダイバーが製造されていた当時に発売されていた、平べったい社外品に変わっていた。オリジナルは風防が立体的に盛り上がっているため、文字盤を斜めから見たときに、ミニッツマーカーや長針が屈折する(その様子さえもがマニアにとってはひとつのチャームポイントだ)。また、風防面が張り出している分だけ、傷付きやすいという評判だった。対して筆者の風防は、個性が薄れた分だけ文字盤が見やすかった。なお、風防の素材は共にミネラルガラスだが、セイコーの純正品は同社が独自に開発した「ハードレックス」となる。

こうした極めてクールかつ大ぶりなダイアルを収めるために、さらに大ぶりなケースを用いて、4時位置のリュウズ上部をつまみあげるように造形したセカンドダイバーは、俯瞰すると、とても愛嬌があった。本人は至って真面目に振る舞っていても、どこかコミカルに見えるチャールズ・チャップリンのようなギャップに、心を奪われてしまったというわけである。
ところで筆者は若い頃、1968年式のアルファ ロメオ「GT1300Jr.」を所有していた。ベルトーネ時代のジョルジェット・ジウジアーロがデザインした通称“ジュリア・クーペ”のデザインは、ボンネット先端がボディを避けるようにデザインされ、それをして“段付き”と呼ばれていた。1960〜1970年にかけて用いられた丸型リフレクターランプは中央寄りに配置され、その表情がとても愛らしかった。
クラシックやヴィンテージと称される時計(やクルマ)が、ビギナーや若者の気持ちを強く引きつけるのはそこに、現代にはない新らしさを感じるからだろう。
そして古い工業製品には、ある種の風格がある。現代に比べるとまだその技術は発展途上で、コストも大切だが理想の方が高かったから、名機や名作が生まれやすかったのだと思う。
話は少しそれたけれど、だからこそ筆者はこのセカンドダイバーに、“ジュリア”にも感じたロマンのようなものを直感したのだろう。
セイコーウオッチ本社に突入、貴重な資料を見せてもらう!
2025年8月26日、セイコーウオッチで植村ダイバーについての取材を行った。
セイコーウオッチと植村直己
日本が世界に誇るマニファクチュールに、筆者のような門外漢が足を運ぶのは、かなり場違いな気がした。そしてその気後れを察してくださったのだろう、今回対応してくださったセイコーウオッチ 商品企画二部の花村翔太郎さんと、プロダクトデザイン部の松榮(まつえ)純平さんは、とても温かい笑顔で筆者を迎えてくださった。
しかしその笑顔とは裏腹に、花村さんの第一声は、かなりショッキングだった。
「最初にがっかりさせるようなことを言ってしまうのですけれど……。実を言うとセイコーウオッチ本社には、植村直己さんに関する資料って、ほとんど残っていないのです」
これを聞いたとき、当然ながら筆者は混乱した。もしかして、話はこれでオシマイ? だったらなぜ、取材を受け入れてくれたのだ?
そう焦りながらも言葉を待つと、やっぱりそこには続きがあった。
「ほとんど残っていないのですが、その中で……数少ない資料のうちのひとつに、ものすごい手掛かりが見つかったんです!」
花村さん、なかなかの盛り上げ上手だ。いやいやその声にはかなり真剣さが込められていたから、おそらくこの資料を見つけたときの興奮を、花村さんは筆者に伝えたかったのだと思う。
その資料とは、セイコーウオッチ社が販売店に送る新商品の情報冊子「セイコー ニューズ」の1973年8月号だった。
「なんと植村さんが、このセイコーニューズ8月号に、当時の様子を寄稿してくださっていたんです」

1973年と言えば、植村直己が「北極圏1万2000km単独行」に赴く前の話だ。となるとセカンドダイバーは、それ以前から着けられていたということになるのだろうか?
そんな筆者のはやる気持ちをなだめるかのように、花村さんはプロジェクターに映し出した記事を読み上げてくれた。
「見渡す限りの雪と氷。目印になるものは何もない。マイナス45度にもなる寒さの中で、私が、いま、どこにいるのかを教えてくれるのは、太陽と六分儀とセイコーの時計だけだ。
(中略)
どこまで来たのか。どこにいるのかを知る手がかりはたった一つの腕時計しかない。私の腕時計(「セイコー ダイバー 61MC」)は、昨年2月の南極旅行のときからずっと私と行動をともにしている。性能に対する信頼感は絶対だ」
なるほどそれは、植村直己が夢見た南極大陸3000km単独横断を果たすために、犬ぞりの訓練をするべくグリーンランドへ赴き、シオラパルク~ウパナビック間往復約3000kmの犬ぞり単独行を行ったあとの寄稿であった。
六分儀とは、太陽が昇る角度を使って自分のいる場所、緯度と経度を割り出す機械だ。1978年の北極点単独行で植村直己はNASAの衛星を利用したビーコンユニットを使ったが(こうした携行品の近代化が、冒険のコストを大幅に高めたという)、それまではこの六分儀と時計を頼りに、自分の位置を確かめていた。ちなみに時計で自分の位置を確認するには、地面と水平に時計を掲げ、短針を太陽の方向へ向ける。そして12時位置のマーカーとちょうど真ん中の位置が、おおよそ南となる(北半球の場合。また、北極のような極端に緯度の高い極地では、この方法は使えなくなるとのこと)。
話を戻せばこの寄稿にある通り、植村直己は「昨年の2月の南極旅行」、つまり1972年の2月にはセカンドダイバーを身に着けていたことになる。
ちなみに「セイコー ダイバー 61MC(以下61MC)」とは、セカンドダイバーの正式名称だ。なんて偉そうなことを言っているが、実を言うと筆者はその古い呼び名を知らなかった。61MCが意味するところは、「Cal.61系ムーブメントを搭載した『セイコーマチック カレンダー』」とのことである。
となると、もしこの61MC(これからはそう呼ぼう)が植村直己・個人の時計ではなく、セイコーから支給されたものだとすれば新品を渡すだろうから、少なくともその時計は「1970年から1972年1月までに製造された個体」、という可能性が高くなる。
筆者の推測を待ち構えたかのように、花村さんは話をこう続けた。
「そしてある本に、"それ"を示唆する文面が見つかったんです!」
"それ"とは植村直己の61MCが、まさにセイコーから支給されたものだった、という事実だ。そのことが書かれた文面は、ヤマケイ文庫(現・山と溪谷社)から発売された『植村直己冒険の軌跡』(2020年。1977年に『山と渓谷』で連載された「植村直己 冒険の軌跡 どんぐり地球を駆ける」の改訂版)の一節だった。そこには南極大陸視察についての記述があり、
八十キロを超える荷物の中には、山の本、写真機、フィルム、時計なども持ち込んだ。
「役人にワイロが通じるのは日本に限っていない。
(中略)
その“ワイロ用”の時計や写真機は、民間企業からちょうだいしてきたものだ」
と書かれていた。
さらに本文には
実際には、時計、写真機の手みやげ一発で乗船も基地に行くこともすべて許可されたが
という記述もあった。
となると少し気になるのは、「賄賂として役人に与えてしまった時計」が何なのか? だが、少なくとも植村直己は、アルゼンチンへと旅立つ前から、セイコーに支給された61MCをずっと使っていたということになる。
では、植村直己はいつセカンドダイバーを手に入れたのか?
マニアックついでに、さらに植村直己が61MCを"いつ"手に入れたのかを深掘りしてみたい。
『植村直己冒険の軌跡』の216ページには、こうある。
この日本縦断から帰って、わずか一週間後に、今度は雑踏する羽田空港のロビーに立っていた。
「この日本縦断」とは、1971年8月30日から10月20日の50日間にかけて、植村直己が行った徒歩での行脚だ。北海道は稚内から九州は鹿児島までの3000kmを歩くことで、南極大陸横断のスケールを体に刻もうとしたのである。ちなみにその模様は、文藝春秋の書籍や雑誌で紹介されている。しかし筆者が見た限りでは、実に惜しい写真が沢山あるのだが、その左手首に着けられた時計が61MCであるかどうかを判別することはできなかった。
仮にこの日本縦断を行う前にセイコーから61MCが手渡されたとしたら、それは1971年8月30日以前となる。そしてこの行脚が終わったあとに手渡されたのだとすれば、1971年10月20日以降ということになる。いずれにしてもにセイコーから61MCを手渡されたのは、1971年である可能性が濃厚だ。
つまり“植村ダイバー”に該当するモデルは……
こうして植村直己が61MCを手に入れた"時期"が分かった。同時にそのモデルも、特定することが可能になった。それは、1971年製の中期型モデルだ。
マニアであればご存じの通り、61MCは1968〜1976年の販売期間の間で、いくつかの仕様変更がなされている。その分類はまず、シンプルな“Cシェイプ”ケースにハック(秒針停止)機能のないCal.6105Aを搭載した「前期型」(1968~1970年)と、独特なリュウズロック機構の搭載を理由に、リュウズガードが付いた「後期型」に大別される。そしてマニアの視点から分類するとこの後期型は、さらに裏蓋のデザインで「中期型」と、「後期型」に分類される。

中期型の裏蓋は前期型と同じ馬蹄マークで、1974年頃からはこれがシンプルなデザインに変わった。

さらに細かいことを言えば、1970年頃に発売された中期型のモデルのみ、文字盤の表記が「150m」(mが小文字)「PROOF」、裏蓋の表記が「WATERPROOF」(続き文字)と、前期型と同じデザインになっている。
そして1970年頃〜1974年頃まで作られた中期型モデルでは、文字盤の表記が「150M」(Mが大文字)「RESIST」、裏蓋の表記が「RESISTANT」へと変わった。
とはいえ中期型の初期モデル(?)はたったの1年しか生産していないから、ちまたで言われている中期型は、ほぼマイナーチェンジ後の“ビッグM”モデルを指している。
センセーショナルな締めくくり
そして最後に花村さんは、今回のインタビューにおいて、もっともセンセーショナルなひと言を放った。
「結論から言ってしまうと、植村さんがお使いになっていたモデルは1971年製です。これは植村冒険館(https://www.uemura-museum-tokyo.jp/)に協力してもらい、実物の状態・仕様を確認し、そのような結論に至りました」
というのである。
なるほど……「植村冒険館」を尋ねる手があったか!
これは筆者にとっても、盲点だった。もちろん植村冒険館についてはホームページを見ていたし、ここを訪れた人々のブログもチェックはしていた。しかしそこに「61MC」の記述や、写真は見当たらなかった。中には「植村ダイバーの展示はなかった」というブログも見ていた。
とはいえ植村冒険館が、これまで61MCを展示してこなかったのは、きっと何か理由があるのだろう(続編にご期待ください)。また年々こうしたヴィンテージが価値を帯びて行くにあたって、展示することで盗難が起きたり、写真の撮影によってその模造品が作られるという危険性がないとも言い切れない。
だから61MCを、そして時計を愛する読者諸兄は、どうぞ植村冒険館に、時計に関して問い合わせることは控えてほしい。
それにしてもやはり冒険とは、自分の足を使わなければだめなのだ。その基本に立ち返らず、インターネットの情報を批判しながら結局はそれに踊らされた自分が恥ずかしくなった。
またもし冒険館に筆者が問い合わせて、簡単に植村直己が使ったモデルの年代が分かってしまっていたとしたら、今回のようなヒストリーは、解き明かされなかっただろう。
花村さんが筆者のリクエストに応えるべくセイコー社内における61MCと植村直己の資料を調べ尽くし、最終的な確認として植村冒険館にコンタクトを取ってくださったからこそ、今回の冒険は完結したと言えるのだ。
突き詰めれば、まだ冒険は終わらない
遂に植村直己が使ったモデルを突き止めることができた今回の冒険譚。しかしながら重箱の隅を突けば(それがマニアでありオタクというものだ)、まだこの、植村ダイバーの冒険には不明瞭なところが多いのも事実だ。
たとえば南米から南極にかけての視察、シオラパルクでの生活、そして「犬ぞり3000km」と「犬ぞり1万2000km単独行」以降で、この腕時計が携行された冒険があったのか? は、依然分からないままである。
ちまたでまことしやかに伝えられている、「北極点単独行」でロレックスとセイコーが交換されたという逸話も、それを裏付ける要素を筆者は持っていない。
一番最後の挑戦となってしまった冬期マッキンリーで着けていた腕時計が、セイコーではなかったという話もネット上には散見しているが、正式な書籍や文面はない。
これは個人的な想像だが、おそらく植村直己はその後の冒険で、この61MCを着けてはいないと思う。
もちろんこの腕時計が現存しているということは、その後も植村直己が61MCを愛用した、もしくはその記念として所蔵し続けたという証しになるわけだが、それ以降の冒険では機材やサポートの体制が大掛かりになったことから莫大な資金が必要であり、その協力を得るために植村直己は、さまざまな最新の腕時計を着けたはずだからだ。
文藝春秋デラックス出版の『植村直己 冒険のすべて』(1978年)を見ると、1978年に行われた北極点単独行の携行品リストには、「ショパール」と「セイコー クオーツ」の文字があった。半面、仮に個人の腕時計として携行した可能性があったとしても、正式なリストの中に61MCの名前はなかった。
何度も言うがこれは、筆者の予想である。だからもし61MCが他の冒険にも使われていたという情報をお持ちの方がいらしたら、ぜひクロノス編集部にご連絡いただきたい。
とはいえ、1971年に植村直己が61MCを身に着け、これを愛用し、果てに1万2000kmにおよぶ北極圏単独行を成功させたこと、そのときに着けられたモデルが同じく1971年に製造された中期マイナーチェンジモデルだったことは、確かな事実だ。それが分かっただけでも筆者にとっては、この上ない幸せである。
そしてこの足跡をたどってくださったセイコーウオッチのみなさんに、この冒険を橋渡ししてくれたクロノス編集部には感謝の意を表したい。
さて次回は、筆者が抱いた61MCそのものの疑問について、深く迫ってみる。




