そこは海鮮料理の屋台街で有名と聞いていたので、旺盛な食欲が僕を港町にいざなう。
さらに別の日、台湾の先住民の人たちが多く暮らす、中央山脈の奥懐の廬山へと足を延ばし、高山茶の世界を旅しながら、日本統治時代の歴史にも触れることができた。
松山猛・著『せらみか』より(1993年、風塵社刊)
ふと、基隆の町へ行きたいと考える。雨の基隆と言われるくらい、そこは年間を通じて湿度の高い港町らしい。
翌朝、台北火車駅から汽車で行こうと思ったが、ちょうど列車は出たばかり、次の列車まで1時間以上も待たねばならぬという。バスは10分おきに出ているよ、と出札係の駅員さんが教えてくれたが、バス駅には、長い待人の列ができていた。
台北の人口は今、ふくれあがってはいるが学生や兵士が、近郊の実家に週末になると帰る。週末は人の出入りが多くて、どこもかしこも満員となるのだ。
あきらめてタクシーに乗り、高速公路で基隆を目ざした。勉強をはじめたばかりの、北京語を、なるべくたくさん使おうと考えるのだけれど、運転手との話題はすぐにつきる。
梅雨雲が空にびっしりと張りつきはじめ、時にフロントウィンドウを、強く雨がたたく。半時間ほどたって、トンネルをくぐると、ぱあっと視界が拡がり、下り坂の向うに船が見える。基隆に着いたのだ。
小さいけれど密集度の高い、中国的な都市がそこにあった。そして港町独特の匂いも。昼食をとろうとあちこち市の中心街を歩いた。やがて屋台街のうちの1軒の、海鮮の店の2階へ上り、ブラックタイガーと呼ばれる海老の刺身とか、季節物の旬の清蒸、鳥などをいただいた。外はお天気雨で、妙に明るいくせに、はらはらと雨が肩に落ちる。
「この町からすぐのところに、野柳岬といって珍岩奇岩でいっぱいのところがあるんだけれど行ってみないか」
「そうだな、せっかくだし行くか」
台湾最北部は、波と風にあらわれた、美しい風景をたくさんもっている。海からすぐに盛り上った山々を背に、それらの海岸はあるのだが、その各地を台湾客運その他のバスがつないでいる。けっこうなカーブの山道をバスはひた走り、やがて風景特別区野柳に至る。
なるほど珍奇な岩がいっぱいの場所だが、いかんせん人が多すぎる。ちょうど汐干狩の頃で、たくさんの人がくり出していたのだ。暑気と人ごみで、ちょっと疲れが出てしまった。相棒も疲れたな、という顔をしている。
それにしてもぼんやりとした、贅沢な時間を送っている。好んで忙しくしているわけではないが、いつも予定に追われてばかりの日常から、ぽこんと、何もせかされるもののない時間にはまり込むというのは悪くない。奇岩がニョキニョキと立つ風景の前に、甘ったるいノシイカを七輪で焼く露店があり、小さな子供までが、まっ黒に陽焼けしながらアルバイトに精を出す。そのエネルギッシュさに僕は見とれてしまった。
まだ水をたっぷり吐き出す、ダイバースーツの若者が、海にもぐって採ってきたばかりのウニを、どうだ食べないかと言う。いつの間にか雨はあがり、まぶしい光の中に包まれ忘れていたくらい久しぶりに、大量の汗をかいていた。
帰りのバスはまた、ひたすら混みあい、ハイキング帰りの若い子たちとぎゅう詰めになりながら、バスは基隆へと走る。カーブの度に、はじけるような笑い声が起った。
お金もなにもなく、ただたっぷりとした自由な時間と、いつまでも話し飽きぬ仲間がいた、自分自身の若い頃を、それは想い出させるに充分な体験だった。遊び疲れて眠りこける座席の人びとと、疲れも知らずに笑い続ける健康そうな顔また顔。