松山猛の台湾発見「雨の基隆ぼんやり時」

LIFE松山猛の台湾発見
2018.06.09
本文中に出てくる「ユーラシア」シリーズで、松山氏がデザインしたグラス。彼は当時、日本のファッションシーンを牽引していたブランドのひとつ「アルファ キュービック」でこのような食器類のデザインも担当していた。和洋中のみならず、さまざまな食文化を楽しむ日本において、幅広い用途の食器であることが「ユーラシア」のコンセプトである。写真のグラスは、「オンザロックのウイスキーも、冷たい白ワインも楽しむことができるように」とデザインされた。ユーラシア大陸を股に掛けるようなイメージで作られたロゴマークも、松山氏が手掛けたもの。

 眼下の濁水峡が鉛色の水龍のように流れ続ける。盧山温泉は台湾中央山脈の奥深い所にあって、標高はおよそ1300mくらいだろうか。
 台湾は雨期の終わりで、平地では蒸し暑い日々が続いていた。この半年ですでに3度目の台湾への旅は、茶の産地歩きを中心としたもので、僕は今この盧山と近くの霧社というふたつの地域にある、高山茶の畑を見にやって来たのだった。
 東京に帰ったら、「ユーラシア」シリーズのための、ガラス器を試作しなくてはならない。頭にぼんやりとそのシェイプを考えたりしながら窓の外を眺めた。暮れなずんでいく風景の、ちょうど中央には吊橋がある。この温泉地に入るには、だれもが100m余の谷を、ゆらりゆれる吊橋を渡って来なくてはならぬ。
 僕と写真家の佐藤裕は、さきほどその橋を、それぞれ20km余の写真機材や着替えの入ったダッフル・バッグをかつぎ、土砂降りの雨に打たれながら渡ったばかりだった。
 橋の途中までたどりついた時、対岸からオートバイに乗った男が渡って来た。フード付きの雨ガッパを着、鉄の馬にまたがった彼の顔は、典型的な高山族のそれだった。
 台湾には約30万余の少数民族が各地方に点在している。この盧山から霧社にかけての一帯は、タイヤル族などの居住区で、かつて日本統治時代に、日本軍と彼らが相戦った事件がある。日清戦争の結果、清国は台湾を割譲するのだが、それは台湾に生きる全ての人びとの意志を当然無視するものだった。台湾は日本の経済的技術的投資を受け、急速に日本の1県として日本化するのだが、その変化を好ましく思わぬ少数民族の声もあったわけだ。
 はるか昔、オランダ人がこの島を統治した時にも、同じような事件があったらしい。霧社のタイヤル族と、日本人移住者との間に、どのようなわだかまりがまずあったのか、全ては歴史の暗闇にまぎれてしまったが、とにかく昭和5年に事件は起きた。タイヤル族の若きリーダー、モールダナオ率いる部族の男たちが、その発端を切ったのだった。結果として多くの死が、この美しい山の地方に、悲しい記憶として残された。

松山猛プロフィール

1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。