松山猛の台湾発見「また来なくてはいけませんよ」

LIFE松山猛の台湾発見
2018.06.23
松山市が購入した、名間産の烏龍茶。名間は決して標高の高い場所ではなく、高山茶とは違った味わいがある。松山氏曰く、「普段飲みに向く」という。

 風がはたと止み、気圧がぐんぐんと下がる。凍頂の台地には陽光がたっぷりあったが、スコールの前ぶれのような気配があった。
 鳳凰山の方向はもう暗雲に包まれ、時折雷光がその灰色を切り割いていた。そして突然ザッと来た。激しい雨だ。信じられないくらいの量だ。しかもそれはスコールどころではなく、台湾全島をすっぽり包む梅雨であった。
 その雨の中、再び車で北上した。観光地の日月潭の町を通りすぎる時、ただならぬサイレンの音が聞えた。窓の外を見るために、水滴で曇ったガラスをふくと、濁流がものすごい。これからさらに山道を登りつめるのかと思うと、多少不安な気分となったが、すでに約束がある。台北から天仁銘茶の劉さんが、この雨の中、僕のために駆けつけてくれているのだから。酒の銘産地、捕里にさしかかった時、その市中で再びサイレンが鳴り響いた。ひょっとして峡谷が氾濫でもしたのか、と身構えたがそれは年に一度の防空演習の日であったのだ。市中の商店はシャッターを降ろし、車は全て停止するのだ。
「びっくりしたなあ、何が起こったのかと思ったよ。日本がいかに平和なふりしてるのかって再確認しちまったよな」
「なにしろ山崩れがあったって、飛行機の中の新聞にでかでか出てましたからね」
「今年は地震の当たり年なんだと。東海岸の方じゃ、たいへんな騒ぎらしいな」
「台湾のニュースって、あまり日本の新聞も書かないですからね」
「羽田から1時間なのにな。隣国というより、もっと深い関係があるはずなのに、政治のしがらみで国交が正式にないなんて、ミステリーだぜこりゃ」
 たった1日のうちに、いろいろな体験があった。こういう日は長い人生のうちでも、そうざらにあるものじゃない。
 その夜半、食事の後の一服の茶を楽しんでいた時、けっこう大きな地震でホテルが揺れた。大理石をたっぷり使った唐木のテーブルが踊るのだ。地震馴れしている現東京住民であっても、身構えるくらいの力を感じた。吊り橋は大丈夫か、いやそれよりも、盧山に入る手前の崖っぷちが、相当地崩れしていたが、あれがひどくなってたら、当分ここから動けない。ままよ、その時はしばらく、この山中で、絵でも描いてやろうと腹をくくったら、すうっと眠ってしまった。

松山猛プロフィール

1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。