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松山猛の台湾発見

松山猛の台湾発見「烏龍茶小史」(1/2)

松山氏が、魚地にある茶業改良場を訪れた際に撮影した敷地内の茶畑。ここでは茶葉の研究、品種改良などが行なわれている。
台湾に烏龍茶が伝えられたのは清朝の時代。それは複数のルートによってだが、その多くは福建省の各地からの移民や、清朝の役人として科挙に受かった台湾出身者が、勤めを終えて帰郷するときに、茶の苗などを持ち込んだことを発端とする。福建省の安渓などから伝えられた鉄観音茶は台湾北部に、そしてまた鹿谷には別の系統の製茶法が伝えられたようだ。
松山猛・著『ちゃあい』より(1995年、風塵社刊)

 台湾は火山性の山々を北部に持つ、我が九州ほどの面積からなる島で、ちょうどその中部の嘉義市郊外に南回帰線が横断している。そう、この島は亜熱帯と熱帯の境界に位置する土地で、その平地は常夏、常春の世界である。
 中国大陸とは海峡をへだててはいるが、大陸南西部、雲南省などを原産地とする野性の茶樹カメリア・シネンシスも、古くから自生していたらしい。
 台湾の古い民間文献に、眉原山で野性茶を見つけたと記されているのが、1697年。日本では元禄の頃、そして中国歴では清朝初期の時代のこと。台湾にはすでに福建、広東からかなりの漢族移民が渡来し、西部の平地を開拓していた時代だ。先住のマレー系少数民族はしだいに山地へと後退して、その自給自足の暮らしに明け暮れていた。
 下って清の嘉慶の頃、連雅堂という人が記した台湾通史によると、1796年から1820年にかけて、茶の苗が台湾北部にもたらされたらしい。今日の台北県木柵、文山あたりに拡がる茶畑のそれが源流である、と思われる。当時の漢族の人々は、科挙と呼ばれる試験を受け、皇帝の命ずる役人となることを誉れとしたから、渡台した移住者も、その子供の中に勉学優秀な者が出ると、大陸へ送り出したものらしい。後に記す南投県鹿谷の林風池の場合もそうだが、そういった国内留学生や、役人として登用された台湾出身者が、飲み物としての茶の苗を、台湾へ持ち帰ったのが、台湾烏龍茶生産の始まりだ。
 もちろん茶そのものは、移民たちにも知られていただろう。裕福な人は、大陸の茶を取り寄せて飲んでいたかも知れないが、移民の多くは、貧困をのがれるために海をこえた人々であり、当時の台湾では、茶が常用されたとは思えない。
 茶の苗は見事に台湾の地に根づいた。そしてそれはおよそ半世紀後の1865年、はじめてイギリスへと輸出される。それこそがフォルモサ・ウーロン茶の始まりである。
 今では紅茶の1品種名となったFORMOSA TEAは、英国人によってマカオに運ばれ評判を得た。1869年には、英国人ジョン・ドットがアメリカへの輸出品として200トンを送り出し、しだいに世界に知られる茶となる。 1881年には福建省の呉福源という人が台湾へ包種茶の製法を指導に来た。軽発酵茶の技術が、はじめて台湾にもたらされたのだ。
 1884年になると、台湾は6000トンもの茶葉を輸出し、外貨を稼ぎ出している。換金作物の茶は、金や銀の鉱脈を持つのと同じで、人々は働くだけ豊かになれる。産業の少ない南の島には、得難い収入となったろう。
 それに鉱物は掘り尽くせば無くなるが、茶の葉は毎年何度も芽を出し、春夏秋冬の収穫の歓びをもたらす。清朝の巡撫として台湾を治めた劉銘傳という人は、台湾の茶業に注目し、生産地の拡大を奨励し、また製茶技術の改良等にも意欲的で、茶農家もその思いによく応え、1893年には輸出量9800トンに達した。
 劉氏はしかしその2年後、日清戦争という現実に直面せねばならなかった。清朝は負けて、台湾を日本に割譲する。劉氏も台湾の茶農家もさぞかし驚き嘆いたことだろう。
 しかし1895年、台湾を統治下に置いた日本政府も、台湾茶業にはおおいに力を注いだようだ。最新式の製茶機を持ち込み、検査場を設置し、その品質の向上と安定をはかったのである。日本と台湾の茶の懸け橋はこの時に確立された。
 さっそく日本でも台湾烏龍茶がもてはやされ、東京の目抜き通りである銀座にも専門店が出現する。6丁目の「台湾喫茶店」の店頭は台湾紅茶売店で、その奥に喫茶室が設けられ、お夏ちゃんという女給さんは、どうやら竹久夢二の絵から抜け出たように美人で、たいそう人気者だったと、内山惣十郎の「明治はいから物語」(人物往来社刊)で読んだことがある。
 日本統治時代の茶園の総面積は4万6406ヘクタールと拡大し、年産1万7000トンもの茶を生産し、それからの半世紀の間、茶は台湾の全輸出産物の5割を占める産業として営まれたという。
 この頃、FORMOSA TEAと呼ばれたのは、分類的には紅茶である。欧米の好みに合わせたキーマン・ティーなどの茶が、代表的輸出茶であった。日本政府の台湾総督府は、1903年に「茶製造試験場」を開設し、それが今日の「台湾省茶業改良場」の前身となった。
 僕は一度、日月潭湖畔の魚池にある茶業改良場を訪ねたことがある。そこの茶園では今もキーマン系の紅茶を研究用に製造していて、2箱ほどプレゼントしてもらったのを飲んだが、天然の甘味のある茶で、発色も良く、ああ、お夏ちゃんの「台湾喫茶店」に通った、ハイカラ男たちは、こんな味の台湾茶を楽しんだのかと想像したのだった。
 赤い紙箱には、日月潭の風景写真とティーカップに注がれた紅茶の写真があしらわれ、白抜き文字で「青山緑水話」墨文字で「紅茶」とある。中華民国台湾省茶業改良場魚池分場という表記が、中文、英文で印刷されている。
 1903年当時は、インドやスリランカ、ジャワなどで大規模な紅茶プランテーションが開かれ、台湾茶は競争相手の増加と共に、危機の時代を迎える。そしてその危機を打開すべく試験場は台湾紅茶の改良に取り組むのだ。
 試験場では台湾人と日本人が力を合わせて仕事をしたことだろう。いつかチャンスがあれば、当時を知る人たちに、話を聞かせてもらいたいと考えているのだが。

 同じ茶葉が、強く発酵が進むと紅茶になり、全く発酵をさせずに製茶すると緑茶となる。台湾で発達したのはその中間の、弱発酵茶の包種茶(発酵度20%程度)、中発酵の烏龍茶(発酵度35%程度)だ。それより発酵の度合いが高い東方美人茶(台湾香片茶)もある。
 良い茶を作る必須のひとつが、小さい水捌けの良い土地、そして年間降雨量1500から3500mmの高地と言われる。
 そして気温が20℃から25℃平均あること。台湾は幸運なことに、まことに茶の成長に適した自然条件を備える土地だった。
 気温が5℃を下回ると、茶樹は成長できない。また40℃となると茶樹は簡単に枯れてしまうらしい。
「正岩茶」と呼ばれるのは雲や霧がよくかかる標高の高い土地で採れるもの。平地の茶は「州茶」と呼ばれ、風味はやや劣る。その中間の茶は「半岩茶」だそうだ。
 茶業改良場の研究によると、紅茶の生育には日光が適当に強い所が良く、逆に緑茶は光量が弱い土地が好ましいとか。そして茶摘みも午前10時から午後3時の間におこなわれるべきで、包種茶製造には、その日の午後の気温が30℃、烏龍茶は37.2℃が理想的らしい。摘んだ後の日光による発酵に、それがちょうど良い気温なのだ。
 ミネラル分が豊富で、水捌け良く、pH4.5から6の土壌が望ましく、もし酸性度が強ければ灰で中和させる。
 茶樹の寿命はおよそ50年。苗を植えて5年目くらいに成長すると、そろそろ摘みごろの茶となる。烏龍茶に適した種は「青心大有」や「青心烏龍」で、前者は凍頂などの烏龍製造に良く、後者は包種茶に向く小葉種。
 先に緑茶から紅茶まで、すべての茶は同じカメリア・シネンシスからの産物とは書いたが、とはいうものの作るべき茶のスタイルに、向き不向きの品種は厳然としてある。
 台湾原産種の茶樹、福建から入ったもの、アッサム系の大葉茶、そして硬枝紅心種などが、長い年月をかけて、品種改良の結果、台湾の風土に合う茶となった。
 他にも鉄観音、武夷、白毛猴が、それぞれに見合った山地、標高、土壌によって使い分けられている。
 カメリア・シネンシスと名付けられたくらいで、茶は椿科の植物である。よく見るとその葉のかたちや実のかたちは椿のそれに似る。当然その花も白い小さなカメリア的である。
 あまりに実の多い茶樹は、茶の生産には向かず、改良種はその生殖器官である実を少なくしたものだそうだ。余談だが台湾の山里の村などでは、茶の実からしぼったとても苦味の強い茶油を売っている。

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