松山猛の台湾発見「僕の烏龍茶始め」

2018.11.10

第二次世界大戦前の台湾における茶摘みの様子。
1980年に初めて台湾に出かけたとき、家内のおじさんのひとりの家に泊めてもらった。その日の夜にたくさんの親戚の人たちと烏龍茶を飲む機会があり、その時初めて功夫茶についての知識を得ることができた。台湾中部に暮らす戦前生まれのおじさんたちは、昔から良い茶葉を探し出しては、小さな急須=茶壺と小さな杯で飲んできたのだ。それまでの我流から、僕も本格的な茶の入れ方を楽しむようになったのであった。
松山猛・著『ちゃあい』より(1995年、風塵社刊)

チャンピオンティーのこと (「闘茶朋友」続き)

 4月中旬の頃から摘まれ、精茶された各農家二22斤の茶が、次々と農会に運び込まれ、約2週間かけて審査を受ける。
 その年は鹿谷郷の3517茶農が入選した。その中から、厳正な審査をくりかえした後、特等奨が1名、次いで頭等、弐等、参等と選別がなされる。頭等は56名、弐等は201名、参等は341名。残りが選外佳作で、金梅ふたつとかみっつのシールを張る権利を得る。
 このような激戦だから、特等はもとより、頭等を取ってもたいへんな名誉である。それはそのまま市場でのヴァリューに反映されるからだ。チャンピオン茶は、例年1斤、つまり600gで、日本円にして10万円もの値がつくし、頭等とて、1斤5万円くらいにはなる。
 その年は第13回目の春茶品評会であって、農家が持ち込んだ22斤のうち、1斤は農会が買上げ、1斤を試験に供し、ランク分けをした後、農会の作業場で300gずつの真空パック缶に2本に分けて詰められ、毎年デザインがかわる紙箱にいれて、農会のマーク入りの封印がほどこされるのだ。これは類似品、つまりニセモノ防止のための策らしい。
 さて農会の封印のある、大切な高級茶は、ひとたび農民に返され、5月29日の朝から、農会の裏にあたる鹿彰(ルチャン)路の、仮日茶市、つまりホリディー・ティー・マーケットで開かれる審査結果発表の後、晴れて売出すことができるのだ。当日、台湾各地や、さらに香港、シンガポールの茶業者、全土の茶愛好家、観光客などが、さほど大きくはないこの鹿谷の町に、大挙車やバスをつらねておしかけて来るらしい。
「今年は781の農家の茶が淘汰されたんですよ」と林総幹事が言う。初審から4回の官能テストのうちに、苦すぎる物、青臭味のある物、焦げすぎ、外観の整わぬ物などは、農会の品質保証がもらえぬ。かなりきびしい評価がそこにはあるのだった。
「採点はどこをポンイトにするんですか」
「まず香味です。これは香気が20%、滋味が40%、外観30%、水色(すいしょく)10%の割合で見ますよ。そして、このふたつの器を使って、良いと思う物は、手付きのカップを、抽出した茶湯のはいった茶碗の頂点に置きます。そして時計まわりに、だんだん低い点になる」
「淘汰された物は」
「ふたを裏がえしにする」
「それはきびしいもんですね」
「年々技術はその、上手になっていますが、やはり駄目なものは駄目ですから」
「それに公正を期すために、全ての茶には番号がふられるんですよ」と張さん。
「ああ、それで、農会の封のところに、なにやら番号があるわけなんだ」
「そのとおり、今までにも、いいお茶を飲んでるんですな」と林さんが言う。
「実は、僕の父や母が生まれ育った、滋賀県の鈴鹿山麓は、近江茶という茶の産地で、僕も子供の頃から、茶畑のある風景を、よく見ていたんですよ」
 今ではさほど高級ではない番茶の産地だが、いつだったか先祖調べをしていたら、松山家の先祖のひとりが、京都へ茶の苗を分けてもらいに行き、土山の山辺にそれを植えたのだというのを読んだことがあった。
「だから茶畑の風景や、製茶の匂いが、ちいさい頃から好きだったんですね」
 話しながら、僕は鈴鹿の山を背景にした、なつかしい茶畑のことを思い出していた。
「そして、うちに代々つたわっている、御先祖の絵があるんですが、その人はチョンマゲをしているから、江戸時代の人でしょう。なんと煎茶の道具といっしょに描かれていまして、割と文化的な御先祖だったらしい。僕の茶好きの背景には、どうも長い歴史があるらしいと、思うほかはありませんね」