松山猛の台湾発見/茶芸館と茶

LIFE松山猛の台湾発見
2019.02.16

松山氏が、台北にある日本家屋の茶芸館「青田茶館」で撮影した1枚。茶壺を置く茶盤のほかにも茶海や茶挟、茶針といった、茶の奥深さを満喫できる茶器が一式取り揃えられている。


「茶」

 僕にとって「茶」は、ただ喉の乾きをいやすだけの飲み物ではない。茶の苦味甘味、そして飲んだあとの爽快感以上に、心に与えてくれる、しみじみとした滋味とでも言うのか、生きることを潤す「力」のようなものを、僕は茶から与えられている気がするのだ。
 母の生家は茶農家でもあった。江洲滋賀の鈴鹿山系の山ふところ甲賀郡は、かなり古くからの茶処であった。
 地形的にもかなり傾斜のあるところで、稲作には向かず、林業くらいがせいぜいの土地の作物として、茶を選んだ賢い先達がいたのだそうだ。
 僕が子供の頃は、茶作りも盛業を呈していて、母の生家の前には、かなり広々とした茶畑が広がっていた。夏休みに帰省すると、ちょうど茶摘みの時期に重なり、緋(かすり)の上下にたすきがけ、手甲(てっこう)、脚半(きゃはん)姿の女子衆が、忙しそうに茶を摘むのを見た。
 こうして摘まれた茶葉は、すぐに蒸されるのだが、製茶小屋の匂いは、今も忘れられぬくらい強い香気であった。
 煎茶や番茶が、だから僕にとっての標準茶であったのだが、大人になり、世界を見て歩くうちに、好みも変わり、今では断じて台湾茶の味と香りのファンなのである。
 茶はラテン語による学名が、カメリア・シネンシスという、つまり椿科の木である。
 椿にそっくりな形の、白い花を秋には咲かせる。この野生種の葉を、煎じて飲んで旨味を知った、古代の中国人は実に偉い人たちだ。
 11世紀には、そのより良き飲み方を記した『茶経』という本まである。つまり陸羽がそれを書くはるか以前からの、茶に対する試行錯誤があったればこそ、このように詳しい内容の書物が出来たのだから。
 陸羽の時代はまだ煮茶の時代で、茶葉の他にまださらに、他の植物、香辛料などを混ぜて飲んだらしいのだが、すでに「水はどこの町の泉の水が良い」などの記述もあって、ミネラルウォーターの産地がどうのこうのと言っている現代人としては、にやりと微苦笑を禁じ得ないのだ。
 台湾の茶業試験場で、野生種の木を断面にした物を見せてもらったことがあるが、それは直径が20cm以上はあろうかという太さで、普通に茶畑で見る茶の木とはまったく異なるものに見えた。それは茶の原種が多いと言われる中国大陸西部の雲南省の茶と、同じルーツを持つ、アジア原生の植物「茶」の仲間だ。
 古代の人々は、そんな大木の葉を摘んで、ガムのように噛んだり、煮立てたりして、エキス分を楽しんだのだろう。中国西南部やビルマあたりに住む、古い生活様式を残す少数民族は今でも、昔ながらの茶の利用法を残しているようだ。それは「食べる茶」と呼ばれるもので、茶の他に炒めたモチ米や生姜、南京などを粉末にしたものを入れて練りあげた物に、熱湯を注いで、一種の茶粥にして喫するらしい。
 さて、僕は無類の茶好きである。その味も好きだが、それ以上に「茶を喫する時間」が好きなのかも知れない。
 中国茶のほとんどは、そのいれ方が合理的で、少しも儀式ばっていないのが、この怠け者の僕にも向いていた。
 明代に始まり、完成した煎茶法は我が国にも移入され、抹茶を用いる「茶道」とは別の一派として流行したが、今ではどこか型式めいた世界になっているようだ。
 中国式の茶道は茶芸と呼ばれ、煎茶とほとんど同じ道具立て、ただしその茶葉の作りが異なるので、いれ方が全然ちがうのだ。
 烏龍茶、包種茶、東方美人、この3種の茶を僕は最も愛飲している。発酵の少ない包種茶、それに次ぐ中発酵の梅山や凍頂、霧社産の烏龍茶。ちょっと発酵が強く、その割に苦味よりも甘味とフローラルな自然香のある東方美人の、そのそれぞれが旨い。
 もちろんインド、スリランカ産の紅茶の良いものも賞味する事が多い。
 これらの茶が合理的なのは、基本的に沸騰した湯を用いる点だ。ある種の日本の茶のように、沸した湯を一度、湯ざましして適温にする必要がなく、誰にでも上手にいれられる所がよろしいのだ。
 同じ茶葉を南の方の中国では、小形の急須で出し、北の方ではマグに直接いれて熱湯を注ぐ方法をとるちがいはあっても。
 酒にほろ酔いながらの対話も楽しいけれど茶に精神的作用を受けながらの語らいが面白い。それは「忙中閑在り」そのままの時間であって、流れて行く時間を、ゆったりとした気分で心のままに楽しむことに他ならぬ。
 今、世はヒステリックなまでの健康ブームである。禁酒の国もあれば、公共の場での禁煙を強いる国もふえた。だが禁茶をとなえる者はどこにもいまい。
 茶も酒と同様に、上を見りゃ限りなく高価な物もあるが、平均すると安価きわまりない飲物だ。よほどの極貧ではないかぎり、茶ぐらい誰にでも飲める、その公平感覚が好きなのである。
 体に害を及ぼすほど、茶を飲んだ人間の話は聞いたことがないし、これからも世界中にこの、あらゆる渇きをいやす飲物は広まり続けるだろう。一服の茶の前には、ナショナリズムも宗教も、鳴りをひそめてしまうはずなのだ。つまり、好みの茶を飲んでいられるということ自体が、けっこう幸福の只中に居るということを忘れてはなるまい。
 ゆえに茶はただの飲物ではないと思うのだ。

松山猛プロフィール

1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。