日本特有の機械時計、和時計 ―その成立と終焉―【時の記念日100周年 記念連載】

FEATUREその他
2020.06.08

和時計の形式

 和時計は5つの形式に分類される。壁や柱に掛けて使用する「掛け時計」、四角錐型の台の上に載せて使用する「櫓時計」、4本足の台に載せて使用する「台時計」、書院造りの部屋の床の間や枕元などに置いて使用する「枕時計」、縦型の長方形の箱で物差し型の目盛りで時刻を知る「尺度計」がそれらの形式だ。

 金メッキ真鍮製のぜんまい駆動で、ひげぜんまい付き円天符の時計機械を紫檀製のケースに入れた枕時計。工芸品としても大変優れ、大名しか持つことができないという意味で大名時計とも呼ばれた。

 時計機械の重錘の下降速度が一定であることを利用した尺時計。重錘に指針を取り付け、物差し型の目盛りで時刻を読むものだ。目盛り板の種類は3種類。割駒を縦に並べた直線型割駒式、24節気13種の時刻目盛りを7枚の板の表裏に記した節板式、各季節の時刻を1枚の板にグラフ状に描いた波板式がそれだ。尺時計は、機構は単純で和時計に比べて比較的安価だったので、裕福な商店、農村の名家にも普及した。尺時計の直線型の時刻目盛りは、西洋の機械時計には例がなく、日本の時計師の独自のアイデアと言われる。

和時計

和時計の形式(a.掛け時計、b.櫓時計、c.台時計、d.枕時計、e.尺時計)


不定時法の自動化機構

 不定時法時刻を表示するように工夫が重ねられた和時計。江戸末期には究極の機構ともいえる不定時法自動表示機構が現れてくる。不定時法表示機構の和時計3例を紹介する。

岩野忠之作 自動割駒式文字盤掛時計

 三重県松坂市の竹川家に所蔵されている紀州和歌山の時計師岩野忠之作の振り子式割駒式文字盤掛時計。割駒の駆動機構は回転文字盤の裏側に組み込まれている。22本の放射状駆動腕に取り付けられた割駒。駆動腕を操作する12のスリットをもつ楕円盤。そして、楕円版を1年で1往復させるカム溝を掘った72歯の年周歯車(1年で1回転する歯車)。それらによって、割駒は各季節の時刻の位置に自動的にセットされるのだ。

岩野忠之

岩野忠之作、自動割駒式文字盤掛時計
割駒式文字盤

自動割駒式文字盤の内部機構(スリット楕円板と放射状割駒駆動腕)

田中久重作 万年時計

 田中久重(1799~1881年)が、1年を掛けて1851年(嘉永4年)に完成した「万年時計」(株式会社東芝寄託、国立科学博物館に展示)。時計に採用されている自動割駒式文字盤は、岩野忠之作掛時計とはまったく異なる機構だ。

 いくつかのクランクの先端に取り付けられた各割駒。クランク軸を駆動する歯車を半年ごとに反転させ、割駒を往復させる特殊な虫型の歯車(虫歯車)の採用。これが万年時計の自動割駒機構の特徴だ。文字盤上の割駒の可動範囲はクランク腕の長さで調節される。岩野忠之作のような年周歯車と異なり、久重特有の歯車構成で、割駒の1年を通じた自動動作を達成している。

 本体上部の、不定時法時刻を示す割駒式文字盤、二十四節気、十干十二支暦、七曜、月齢と月の満ち欠け表示、西洋文字盤の6面の文字盤。頭部に取り付けられた太陽と月の天象儀。万年時計は、時計機構の精巧さだけでなく、蒔絵、螺鈿、七宝、彫金細工の装飾で工芸作品としても優れた和時計の最高傑作とされ、2006年(平成18年)重要文化財に指定された。

万年時計

1851年(嘉永4年)田中久重作、万年時計
万年時計

万年時計の自動割駒式文字盤の機構

伊豫在政作 円グラフ文字盤掛時計

 調速機に振り子が採用された、木製の掛け台付きの掛け時計(個人蔵、国立科学博物館の和時計コーナー展示)。1年各季節の不定時法時刻を円グラフ状に刻んだ目盛盤を、季節によって自動で伸縮する指針(自動伸縮指針)で読み取る、自動割駒式文字盤とはまったく異なった不定時法自動表示機構だ。

 中央の円盤が指針ユニットで、ユニットの駆動用歯車に採用されている歯数72と73の差動歯車機構が特徴である。指針は1日に1回転する毎に生ずる差分の動きが年周カムに伝えられ、指針が1年間に1回、自動的に伸縮するようになっている。時計の構造上、組み込みが不可能なため時打機構はない。

 時計は、安芸広島の時計師5代、伊豫辰之助在政が1835年(天保5年)に製作したものだ。在政は、1824年(文化7年)に2人扶持を命ぜられた広島藩お抱え時計師で、広島新鍛冶町に工房を構えていた。

 

伊予在政

1835年(天保5年)伊豫在政作、円グラフ自動伸縮指針掛け時計


和時計の終焉

 日本は明治時代に入り西洋との修交が始まり、各種制度の近代化の一環で改暦が行われた。政府は、明治5年(1872年)12月3日を明治6年1月1日とし、グレゴリオ暦と1日24時間の定時法を採用した。不定時法の和時計は不要となり、1889年(明治22年)に岐阜県恵那郡茄子川村(現在の中津川市)の時計師、勝利助が製作した一挺天符掛け時計を最後に和時計の製作は終わった。

 製作された和時計の数は、明治以降に生産された時計と比較するとほんのわずかな数でしかない。しかし、明治以降名古屋に起こった時計産業は津田助左衛門と決して無関係ではなく、また万年時計作者、田中久重が興した田中製造所が世界企業の東芝へと発展した事実は、和時計の技術が日本の産業、特に時計を含む精密機械工業のルーツのひとつと思われてならない。

 時の記念日100周年。かつて江戸時代、時計師がコツコツと工夫を積み重ねた和時計に、思いを馳せてはどうだろうか。


著者

佐々木 勝浩(ささき・かつひろ)
国立科学博物館名誉研究員
 
専門分野は科学技術史、博物館学、科学コミュニケーション。1978年より国立科学博物館研究官となり、和時計を中心とする時計コレクションを担当。日本の科学技術史資料の収集および調査研究に携わる。2008年に同博物館を定年退職。現在も和時計の研究を継続し、また西洋の塔時計、天文時計の実地調査を行っている。

【時の記念日100周年企画展 「時」展覧会2020】東京・上野の国立科学博物館で開催

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