新型コロナウイルス禍は時計業界に“味方”した!? スイス時計の2021年総輸出額、史上最高に!

FEATURE役に立つ!? 時計業界雑談通信
2022.02.12

ウォッチジャーナリスト渋谷ヤスヒトの役に立つ!? 時計業界雑談通信

2022年1月にスイス時計協会FHが発表したスイス時計産業の2021年の総輸出額は、コロナ禍にもかかわらず史上最高を記録した。それはなぜか? その理由と、これからのスイス時計産業について考えたい。

スイス時計協会FHのオフィシャルサイトで毎月発表されるスイス時計の総輸出額をはじめとする統計データのページ。
渋谷ヤスヒト:文 Text by Yasuhito Shibuya
(2022年2月12日掲載記事)


2014年を超えた223億スイスフラン!

 スイスの時計産業の業界団体、スイス時計協会FHは毎月、そして毎年、スイス時計の輸出額を発表している。そして、腕時計ばかりでなく時計関連すべてを含むこれまでの史上最高額は、2014年に記録した222億5000万スイスフラン(2兆7812億5000万円、1スイスフラン=125円換算、2022年2月11日時点)だった。

2022年1月27日に発表された2021年12月単月および2021年年間のスイス時計の総輸出額と主要国および地域別上位30市場への輸出額等のスイス時計業界の統計データを発表するスイス時計協会FHオフィシャルサイトのページ。

 2022年1月にスイス時計協会FHが発表した、スイス時計産業の2021年の年間総輸出額は史上最高の223億スイスフラン(2兆7875億円、同上)。2020年は前年比マイナス21.8%だったため、FHは好調だった2019年との比較を発表している。2019年の年間総輸出額である217億1770万スイスフラン(2兆7147億1250万円、同上)と比較すると、2021年はプラス2.7%の成長。しかも過去最高だった2014年をわずかプラス0.2%上回った。つまり2021年、スイス時計産業は新型コロナウイルス危機を「克服」し、年間総輸出額において過去最高を記録したのだ。

スイス時計協会FHが発表した2019年から2021年までのスイス時計の年間総輸出額(単位:100万スイスフラン)の推移の棒グラフ。コロナ禍にもかかわらず、2021年は史上最高額を更新し、注目を集める。

 ところで、このコロナ禍の中でなぜ、スイス時計産業は年間総輸出額史上最高を達成できたのだろうか?

 これは単なる「回復」や「克服」ではない。異常な金融緩和による「高級時計バブル」と「北米市場の構造変化」の結果だと筆者は考える。


超高額な高級時計だから「売れてしまう」バブル

 まず「高級時計バブル」とは何か? それは、売れ筋だった数十万円クラスの腕時計が「期待通りには売れない」厳しい状況が続く一方で、これまで売れなかった数千万円クラスの複雑時計まで「売れてしまう」状況だ。

 時計業界とその周辺の情報を総合すると、2021年から、日本中の百貨店や時計専門店でこうした事態が起きていることは、どうやら間違いない。しかも、購入者は時計コレクターのような、これまでもこの種の時計を購入してきた層ではないという。

スイスから日本へのスイス時計輸出額(スイスフランベース)の2019~2021年の月ごとのデータをまとめた折れ線グラフ。(スイス時計協会FH発表)

 こうした人たちが超高額な高級時計を購入する理由、それは「高級時計の資産価値」に注目した、資産としての購入だという。世界的な金融緩和によるカネ余りと株価の異常なバブルで生まれた利益を、金融が引き締めになる、バブルが弾ける前に実物資産に換えて保持しておきたい。その結果、生産数が非常に少ない超高額な高級時計が注目されているのだろう。

 筆者はこうした消費を揶揄するつもりはまったくない。なぜなら高級時計はそもそも王侯貴族のものであり、王侯貴族のようなパトロン(=顧客)がいるから発展してきたものだからだ。高級時計は文化であり、文化にはお金がかかる。

 作家の筒井康隆先生がエッセイ本『やつあたり文化論』(1975年、河出書房新社刊・絶版)で喝破された通り「芸術や文化は社会にとって贅肉」であり、だからこそ大切なもの。「贅肉だから不要なもの」ではない。贅を尽くして本当に良いモノを作ることは、モノ作りの発展には不可欠なことだ。

 ただ心配なのは、こうした時計を購入している人たちの一部に、どうやら時計の「芸術性」「文化的価値」をあまり理解していない、「投機で儲かるアイテム」だと明らかに誤解している人がいることだ。これは時計ブランドや、そこで時計作りをしている人たち、そして、その作品である時計にとって不幸なことになる可能性がある。

 超高額な時計、それも複雑時計が売れるのは、時計ブランドや時計師たちにとって好ましいことであることは間違いない。ただ「投資で儲ける」目的のために購入されたこうした超高額の時計、特に複雑時計がどこへ行くのかが正直、心配になる。その価値にふさわしく大切にされることを心から祈らずにはいられない。


ついに「覚醒した」北米の高級時計市場

 さて、日本をはじめとした世界中で起きているこの「高級時計バブル」に加えて、スイス時計産業が年間総輸出額史上最高を達成できたもうひとつの理由。それは「アメリカ合衆国の時計市場の地殻変動」だ。

 スイス時計業界にとって、アメリカは常に最重要市場のひとつだった。しかも十数年前には世界No.1市場だったことは、当時を知る人ならご存じだろう。筆者は当時、今はなき「バーゼルワールド」のトップページに、アメリカの時計関係者向けの特別なバナーが設けられていたことを覚えている。FHが公開している2005年のデータでもアメリカ市場は総輸出額で世界No.1だった。

 2021年のスイスからアメリカへの総輸出額は、2019年と比較するとプラス21.7%の3億788万スイスフラン(384億8500万円、同上)。ちなみに2005年は2億1561万スイスフラン(269億5125万円、同上)、2010年は1億6766万スイスフラン(209億5750万円、同上)、つまり一度はダウンしたものの、十数年ぶりにアメリカは世界No.1に返り咲いたのだ。しかも、新型コロナウイルスで世界No.1の死者を出しながらである。

2019年から2021年までのスイス時計の主要5カ国・地域への年間総輸出額(単位:10万スイスフラン)の統計データ。2021年は前年の中国を抜いてアメリカ合衆国が世界一になった。日本市場は3カ年を通じて4位を堅持している。(スイス時計協会FH発表)

 しかもアメリカの「No.1奪回」の基盤は間違いなく、スイスからの輸出額3000スイスフラン以上、実売価格では70万円以上の、最も高額なカテゴリーの腕時計だ。

 2005年当時、スイス時計産業にとってアメリカ市場は「とにかく数が売れる市場」であり「高級品はまったく売れない市場」だった。

 筆者は当時、アメリカへの輸出がメインだった某時計グループの幹部から「アメリカでいちばん売れるのは何といってもお手頃価格のクォーツ腕時計だ。『メイド・イン・スイス』の刻印があればそれで売れる」と説明されたことを覚えている。そして、もうひとつ鮮明に記憶しているのが、「アメリカ市場で成功するためには、もっとエデュケーション(教育)が必要だと思っている」という、ブレゲ創業家7代目、現在はブレゲ社の副社長、歴史知的財産管理および戦略開発部長を務めている科学史家のエマニュエル・ブレゲ氏の言葉だ。当時のアメリカ市場は、そんな風に語られる市場だったのである。

 だが、時計のネットメディアを見れば、またグランドセイコーのアメリカ市場での成功を見れば分かるように、今のアメリカには、かつてはほとんどなかった「高級時計市場」が確立されたことは明らかだ。つまり、低価格なクォーツ腕時計から高級機械式腕時計へという「地殻変動」が、この十数年間の間に起きたのである。


高級腕時計へのシフトは世界的な現象

 ただこの地殻変動は、アメリカだけの話ではない。今や世界的な現象と言えるのだ。2021年の腕時計だけの年間総輸出額は212億スイスフラン(2兆6500億円、同上)で、2019年と比較してプラス3.5%。だが年間輸出本数は2019年から約490万本、1/4近くも減少し、約1570万本になっている。つまり、高級腕時計へのシフトが世界全体で進んでいるのだ。

 高級腕時計へのシフトはすなわち、時計市場の「成熟」を意味する。そして、成熟した時計市場では、多少の変動は起きるものの、需要は岩盤のように堅く安定したものになる。

 今後、世界の時計市場は、アメリカと中国が、国際政治の覇権争いと同様に、No.1を競い続ける状態が続くだろう。もっとも、ゲートウェイの香港を加えれば、中国市場のシェアはアメリカの約1.5倍。スイス時計業界の最大の顧客が中国であるという状況はまだ変わらない。

 おそらく、2022年のスイス時計の総輸出額は、国際紛争など不幸な出来事が起こらなければ、アメリカでも中国でも過去最高を記録し、続けて史上最高を更新するだろう。できればその理由が投機目的ではなく、時計の魅力に開眼した人たちが増えたから、であることを心から祈りたい。


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