ジラール・ペルゴ/ヴィンテージ 1945

FEATUREアイコニックピースの肖像
2020.10.25

故ルイジ・マカルーソ、デザイナーとしての横顔

スイスに“マニュファクチュール”という定義を与えた人物が故ルイジ・マカルーソであった。1992年にジラール・ペルゴのCEOに就任した彼は、その辣腕でたちまちスイス時計業界に大きな影響を与えた。しかしそんな彼が、デザインにも卓越した手腕を持っていたことは、案外知られていない。

「ロレアート」を腕に巻くルイジ・マカルーソ。筆者が2006年に初めてインタビューした際のポートレートである。その際、彼はデザインの秘訣をいくつか漏らしてくれた。

 1979年、デスコ・ド・シュルテスがジラール・ペルゴを買収した。以降同社は高級クォーツに活路を見出したが、結果として、経営を悪化させるだけに終わった。新しく経営者に抜擢されたのが、同社の技術部長であったフランソワ・ベッソンである。就任してすぐに彼は、ルイジ・マカルーソに電話をかけた。今後ジラール・ペルゴはどうすべきかというのがその内容である。マカルーソの答えは、機械式クロノグラフを開発することであった。

 当時マカルーソは、イタリア最大の時計代理店であるトラデマ・イタリアのCEOとして、ハミルトンとブライトリングをイタリア市場で成功に導いた。ベッソンは、トラデマの販売力にも注目したのだろう、彼をジラール・ペルゴの取締役会に招聘した。

 ルイジ・マカルーソ。スイス時計業界に〝マニュファクチュール〟という概念をもたらしたこのトリノ人は、実のところ、それ以上にデザイナーやプロダクトマネージャーとしての才能に長けていた。

 一例が、彼がイタリア市場で販売したブライトリングである。83年に登場した「クロノマット」が、なぜイタリア空軍の「フレッチェ・トリコローリ」との共同開発だったのか。本当の理由は、イタリア人のマカルーソが進めた企画だったからである。のみならず彼は、最初のクロノマットのスケッチさえ描いている。現在クロノマットのデザインには、エディ・ショッフェルが携わったと考えられている。しかし実際のところ、原型を作ったのは、ルイジ・マカルーソだったのである。

 もうひとつの例が、ハミルトンだろう。彼は当時まだハミルトンの本拠地があったアメリカに飛び、クォーツしか作っていなかった同社に機械式の「カーキ」復活を勧めた。このモデルは、後にハミルトンの屋台骨を支えることになる。ちなみに、後年ダニエル・ジャンリシャール(現ジャンリシャール)が復活した際、そのコレクションがハミルトンに似ていたのは、決して偶然ではないだろう。

ヴィンテージ 1945の原型となったモデル。ただしこの個体は、おそらく1948年製。搭載するのは、やはりCal.86だ。

 ベッソンに対してマカルーソが機械式クロノグラフを作るよう勧めたのは、当然の成り行きだった。そして生まれた「GP7000」(87年)は、大ヒット作となった。

 80年代の後半以降、ベッソンはジラール・ペルゴの株式の大多数を所有するに至った。彼の引退時にそれを買収したのが、取締役だったマカルーソである。以降彼は、ジラール・ペルゴのCEOとして、辣腕をふるうようになった。彼が推し進めた「マニュファクチュール化」については、さまざまな書籍やウェブサイトで記されているので、ここで紙幅を割こうとは思わない。

1940年代のアメリカ向け広告。掲載された時計が、すべて“角型”であることに注目。1930年代以降、ジラール・ペルゴは丸型以外の時計を、当時最大のアメリカ市場に投入した。

 むしろ今回触れたいのは、彼のデザイナーとしての功績である。かつて建築家を志した彼は、CEOになる以前から、デザインにも才能を見せていた。マカルーソはジラール・ペルゴに数多くの傑作を遺したが、そのうちのひとつは、いうまでもなく「ヴィンテージ 1945」である。

 ルイジ・マカルーソの長男であり、現在ジラール・ペルゴで開発部長を務めるステファノ・マカルーソ氏。彼は、ルイジに最も近い人間として、次のような感想を述べた。

「90年代初頭、父はかつてのジラール・ペルゴに触発されたモデルをいくつか発表しました。私の記憶に依れば、それは1967と小さな女性用の時計だったはずです。しかし、これらの時計以上に成功を収めたのが、ヴィンテージ 1945でした。彼はこの時計が、ジラール・ペルゴが体現するエレガンスに最も近いと考えていましたね。レクタンギュラーケース、カーブしたケースの形状、ケースに統合されたストラップ、そしてケースの角に加えられた4つのバーなど……」

 ルイジ・マカルーソはジラール・ペルゴのすべての時計をデザインしたが、その詳細をほとんど語らなかった。ただ遺された時計と、少ないインタビューから、それを推測することは可能だ。では、マカルーソのデザインは、どこに特徴があったのだろうか。

 ステファノ・マカルーソ氏が語ったように、90年代、ルイジはジラール・ペルゴの古典に範を取ったモデルをいくつかリリースした。そのひとつが、94年の「ヴィンテージ94」である。搭載していたのは、手巻きのプゾー7001。このモデルの成功に触発されたのは間違いない。彼は翌年、よりクラシカルな「ヴィンテージ 1945」を発表した。このモデルも、搭載していたのはやはりプゾー7001だ。しかしマカルーソ氏は、この復刻版に、必ずしも満足していなかったようだ。

ヴィンテージ 1945 ジャックポット トゥールビヨン
2007年初出。ヴィンテージ 1945の異端が、このジャックポット。レバーを倒すと、12時位置のスロットで遊べる。手巻き(Cal.GPFAY08)。38石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約75時間。18KPG(縦43.00×横43.95mm)。30m防水。参考商品。

ヴィンテージ 1945 スリー・ゴールド ブリッジ トゥールビヨン
2004年初出。ルイジ・マカルーソは、ジラール・ペルゴを代表するふたつのアイコンを巧みに融合させた。自動巻き(Cal.9600-0019)。31石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約48時間。18KPG(縦36.1×横35.25mm)。30m防水。2247万円。

 コルビュジェの信奉者であったマカルーソ(建築学博士であることを想起されたし)は、彼同様、人間に優しい造形を好み、時計にもそういったデザインが盛り込まれるべきと考えていた。幸いにも、94年に、ジラール・ペルゴは薄型自動巻きのキャリバー3000系を完成させていた。彼はヴィンテージ 1945を刷新してケース全体を大きく湾曲させ、そこにこの極薄ムーブメントを載せたのである。厚さ2.98㎜の自動巻きだからこそできた「荒技」といえるだろう。

ヴィンテージ 1945 スリー・ゴールド ブリッジ トゥールビヨン 70周年記念モデル
オリジナルの発表から70周年を記念したモデル。ブリッジが細くなり、より一層ムーブメントがよく見えるようになった。自動巻き(Cal.9600-0028)。31石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約48時間。18KWG(縦36.1×横35.25mm)。30m防水。世界限定18本。2247万円。

ヴィンテージ 1945 トゥールビヨン
2000年初出。ただしこれは、ピニン・ファリーナが手掛けたロールス ロイス「ハイペリオン」とのコラボレーションモデル(05年)。時計部分だけ外して、ダッシュボードに装着可能というギミックを備えていた。自動巻き(Cal.9610C)。18KPG(縦32×横32mm)。参考商品。

 エルゴノミックに対する彼のこだわりは、筆者が見たところ、2000年頃の女性用「リシュビル」、そして04年発表の「キャッツアイ」で頂点に達したように思える。「ヴィンテージ 1945」以降のジラール・ペルゴは、装着感を改善するため、年々ラグを延ばし、ケースを湾曲させていった。これは、かのジェラルド・ジェンタが、長いラグを嫌った(ジェンタは、長いラグは生産性を悪化させると見なしていた)のと対極的だ。確かに長いラグは、優れた着け心地をもたらす可能性が高い。ただ結果として、一部のジラール・ペルゴは、時計全体に比して、長すぎるラグを持つようになった。以降のジラール・ペルゴが、以前よりもラグを切り詰めるようになったのは、おそらく行き過ぎへの反省があったのだろう。ただ少なくとも、ジラール・ペルゴ以降、各社がラグを延ばしたデザインを指向するようになったのは、紛れもない事実である。

FEF86の改良版である、MIMO 86こと、GPキャリバー86の部品図。この優れたレクタンギュラームーブメントを使うことで、ジラール・ペルゴは数多くのレクタンギュラーウォッチを製造することに成功した。

 ルイジはベルトとケースを密着させる手法の先駆者でもあった。ラグが伸びると、ケースとの間隔が空いてしまう。そこで彼は、ベルトをケースに密着させて、時計全体の間延び感を解消した。現在、多くの時計のベルトの取り付け位置は、必ずしもラグの形状に沿っておらず、しかもその位置はかなりケース寄りだ。これは明らかに、ルイジ・マカルーソ以降の流れといっていい。もちろんこの手法も、現在は多少控えめになった。ラグは短くなり、そしてベルトとケースの間には、わずかに間隔が設けられるようになっている。

ヴィンテージ 1945 スモールセコンド&デイト 70周年記念モデル
日本市場限定モデル。よりクラシカルなレイルウェイトラックや、黒いアラビア数字を持つ。裏蓋は、ベースモデル同様トランスパレント。自動巻き(Cal.3300-0036)。28石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約46時間。SS(縦33×横32.45mm)。限定70本。107万円。

ヴィンテージ 1945 XXL スモールセコンド 70周年記念モデル
極めてクラシカルなデザインを持つ新作。最新型だけあって、部品同士の立て付けは非常に良い。ソリッドバック。自動巻き(Cal.3300-0051)。32石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約46時間。SS×18KPG(縦36.2×横35.25 mm)。30m防水。限定100本。138万円。

 そして最後は、大胆なモチーフの採用だった。先駆けは間違いなく、スリー・ブリッジトゥールビヨンだ。これに限らずルイジ・マカルーソは、普通に思えるデザインにも太いラグ(2001年のWW.TC)やインデックス(1999年のヴィンテージ 1999)、あるいはベゼル(2001年のオペラ・ワン)などを盛り込んでいったのである。彼の手掛ける時計が、古典的でありながらも、モダンに見えた最大の理由が、メリハリの巧みな付け方にあったのではないか。

 こういった要素は、当然ながら、基幹コレクションであるヴィンテージ1945にも強く反映されている。大きなインデックスや、太らせたラグやケースサイドなどがその好例だろう。しかし彼のバランス感覚は、決して全体を破綻させなかったのである。

 かつてルイジ・マカルーソは、建築家になりたかったと漏らした。結局彼は、家業である実業を継いで、建築家になることを断念せざるを得なかった。しかし結果論だけを見れば、それは時計業界にとっては大きなプラスだったに違いない。彼は、結局時計を建築することで、ジラール・ペルゴを大きく躍進させただけでなく、時計のデザインをも大きく変えたのだから。

 決して彼は多くを語らなかった。しかし筆者が思うに、ルイジ・マカルーソこそが1990年代最大の時計デザイナーだったのではないか。そしてその遺産は、今なおジラール・ペルゴを支えているのだ。