[評伝] ジャック・ホイヤー
〝名将が腕を振るったあの時代とオウタヴィア〟
2017年にオウタヴィアが復活した際、タグ・ホイヤーは“なぜこのモデルを選んだのか”といぶかしむ声は少なくなかった。それを理解するカギは、このモデルを育て上げたジャック・ホイヤーにある。彼はオウタヴィアをもって、ホイヤーを腕時計メーカーへと脱皮させたのである。
1962年にホイヤーの経営権を掌握したジャック・ホイヤーは、同時代の経営者とふたつの点で変わっていた。ひとつは、自らプロダクトを開発したこと。そしてもうひとつは、自ら時計を売り込んだ点である。これはホイヤー家の人間に共通する個性だったが、28歳で経営を継がざるを得なかったジャックは、いっそうアグレッシブだった。
就任したジャック・ホイヤーはたちまちホイヤーの新しい経営方針を定めた。「ストップウォッチの利益は良かったのですが、私たちのクロノグラフは満足できる程度で、男性用と女性用の自動巻き時計は悲惨そのものだったのです。というのも、このジャンルの競争が激しかったためですね。そこで私たちは、保守的な腕時計の製造をやめ、腕時計用クロノグラフとストップウォッチ、そしてラリーで使うためのダッシュボード用の計器に特化することを決定しました」。ジャックは、メインターゲットをモータースポーツ関係者に絞り、営業をかけた。62年1月、ジャックはフロリダで開催されたセブリング12時間レースに参加し、フェラーリのピットにもぐりこんだ。
オフィシャルの評伝には記されていないが、当時を回顧して、彼は筆者にこう語った。「何のツテもなかったので、私はジャーナリストのフリをしてフェラーリのピットにもぐりこんだのです。面白い時代でしたね」。そこで彼は、ホイヤーのターゲットが、モータースポーツの愛好家であることを確信した。
63年にリリースされたクロノグラフが、「カレラ」という〝いかにも〟な名前を与えられたのは、決して偶然ではない。伝説的なレースだった「カレラ・パナメリカーナ」は55年に中止となったが、その名前はジャック・ホイヤーの脳裏に強く残った。当時アメリカにいた彼は、スイスに帰国するや、ホイヤー カレラという名前を登録した。「私は新製品の開発にコミットしていました。そして、来るべき新製品は、カレラと呼ばれるべき、と考えたのです」。オウタヴィアに続いてリリースされたカレラは、とりわけアメリカ市場でヒットし、ホイヤーを保守的なストップウォッチメーカーから脱皮させるきっかけとなった。
ホイヤーがモータースポーツにコミットするようになったのは、68年のことである。ジャックの古い友人は、彼にスイスの若きレーシングドライバーである、ジョー・シフェールのスポンサーになることを勧めた。この年、シフェールはF1のイギリスグランプリで初優勝を遂げ、さらなる飛躍が期待されていた。ホイヤーは、年に2万5000スイスフラン(当時の日本円で約210万円)という高額なフィーでシフェールと契約、彼はレーシングスーツと乗車するレーシングカーにホイヤーのロゴを付けて、世界中のサーキットを荒らしまわることとなる。ちなみにそんなシフェールが愛用していたのは、ジャック・ホイヤー曰く「おそらくオウタヴィア」(実際に、オウタヴィアを腕に巻いた写真が何枚も残されている)。現在、このモデルは世界的なコレクターズアイテムとなっている。
余談をもうひとつ。初めてF1にスポンサーシップを導入したのは、当時シフェールも乗っていたロータスである。当時ロータスを率いていたコーリン・チャップマンは、なぜスポンサーを付けたのかという問いに対して、こう答えた。「ロータスの活動をF1、F2、F3などに広げると、年に9万5000ポンド(当時の日本円で約8200万円)かかる」。そう考えると、ホイヤーがシフェールに払った2万5000スイスフランが、いかに高額だったかが理解できよう。ジャック・ホイヤーは、プロダクトに劣らず、マーケティングが重要であることを理解していたのである。シフェールはホイヤーの期待によく応え、ホイヤーは後に、彼を〝スーパーセールスマン〟と称するまでになった。1968年、ホイヤーの売り上げは前年比35%増となり、最高収益を記録した。
モータースポーツと手を取り合って、急激に成長していったホイヤー。その頂点が、フェラーリとのパートナーシップだった。当時フェラーリF1のドライバーだったクレイ・レガツォーニの要望で、ホイヤーは先進的なラップタイマーを完成させた。ホイヤーはこれをエンツォ・フェラーリにプレゼンテーションしたところ、フェラーリは「F1マシンにロゴを記していいから機器を無償で提供してくれ」と述べた。ジャックは拒絶し、値下げして納入することも断った。折れたのは〝イル・コメンダトーレ〟のほうだった。ジャックはエンツォの対応をこう記す。「ホイヤーさん、あなたは私を助けるべきなんです。ドライバーのフィーは極めて高いのだから」。71〜79年まで続いたフェラーリへのスポンサーシップは、ホイヤーの名声を一層高めた。「この期間中、すべてのフェラーリドライバーは、(ホイヤーの)パッチを付けたレーシングスーツを着て、ホイヤーの工房を訪れ、彼らの名前と血液型が記されたカレラを着けたのです」。
2017年に発表されたオウタヴィアは、純然たるタグ・ホイヤー製の自動巻きクロノムーブメント、ホイヤー02を搭載する。既存のCal.1887より長いパワーリザーブと、ETA7750とは異なるレイアウトに加えて、GMT表示が可能な拡張性、そしてメンテナンス性の高さが追求された。直径31mm、厚さ6.9mm。33石。パワーリザーブ約80時間。
もっともホイヤーの退潮は、70年代初頭には緩やかに始まっていた。69年、諏訪精工舎(現セイコーエプソン)が垂直クラッチを載せた自動巻きクロノグラフ、キャリバー6139をリリース。合理化された設計を持つこのクロノグラフの価格は、オウタヴィアの半額に過ぎなかったのである。加えてデジタル式のクォーツクロノグラフが普及し、機械式ストップウォッチの売り上げが激減したことは、当時まだストップウォッチに依存していたホイヤーには致命的だった。彼はホイヤーを売却し、静かに表舞台を去ることになった。
彼が再び表舞台に立つようになったのは2001年のことである。タグ・ホイヤーのCEOに就任したジャン-クリストフ・ババンは、ジャック・ホイヤーを招聘し、名誉会長としたのである。プロダクトとマーケティングにフォーカスしたジャックは、ババンにとって模倣すべき対象だった。この時代にタグ・ホイヤーはジャック・ホイヤーの評伝をリリースし、インタビューを数多く行った。それらはジャーナリストたちに好個の話題を提供したが、むしろその恩恵を最も受けたのは、タグ・ホイヤーの若い経営陣たちではなかったか。LVMHグループの関係者が述べたように、ジャック・ホイヤーの謦咳に接することで、時計業界外から来た彼らは、やがて時計業界を支える人材へと変わっていったのである。
タグ・ホイヤーのCEOがジャン-クロード・ビバーに代わった後も、ジャック・ホイヤーはタグ・ホイヤーに影響を与え続けた。ビバーが新しい自社製ムーブメントを開発させたとき、彼はこれを、売れ筋のカレラではなく、ジャック・ホイヤーが初めて手掛けた腕時計クロノグラフ「オウタヴィア」に載せようと考えた。
ジャック・ホイヤー生誕85周年記念モデル。シルバーフィニッシュの文字盤と、ホイヤー家の家紋および、ジャック・ホイヤーのサインが刻まれたケースバックを持つ。自動巻き(Cal.ホイヤー02)。33石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約80時間。SS(直径42mm)。100m防水。世界限定1932本。64万円。
2016年秋に初めてオウタヴィアの復刻版がお披露目されたときに、ビバーはこう語った。「私はジャック・ホイヤーを招こうと思う。私は新しいオウタヴィアを、ジャックのために作りたかった。これはジャックの85歳の誕生日を祝う、もっともよい方法だと思ったからだ」。
ビバーはこうも語った。「私はしばしば、従業員にこう語ってきた。これは個人的な哲学でもある。伝統なくして未来なし。また、私はこうも付け加えたい。革新なくして未来なし、と。新しいオウタヴィアが、過去に敬意を表しつつも、過去の復刻版に留まらない理由だ」。1962年に、ジャック・ホイヤーは全く新しい腕時計クロノグラフ、オウタヴィアでホイヤーに新しい道を開いた。今再び、その名前は蘇り、タグ・ホイヤーの新しい未来を指し示そうとしている。
https://www.webchronos.net/iconic/16924/
https://www.webchronos.net/iconic/28001/
https://www.webchronos.net/features/41995/