タグ・ホイヤー/モナコ

FEATUREアイコニックピースの肖像
2019.03.26

1969年に発表されたホイヤーの「モナコ」は、自動巻きクロノグラフの幕開けを飾る時計となった。しかし、スイスフランの高騰やベースムーブメントの供給停止などは、この野心作に不本意な引退を強いた。それから20数年、新しく復活したモナコは、タグ・ホイヤーの定番に成長を遂げたのである。

モナコ

吉江正倫:写真
広田雅将(本誌):取材・文
[連載第50回/クロノス日本版 2019年3月号初出]

世界初の自動巻きクロノグラフ搭載を目した
革新的なスクエアクロノグラフ

1969年3月3日に発表された、自動巻きクロノグラフムーブメントの「クロノマティック」。搭載した3つのモデルの中で、自動巻きであることを強調したのが、スクエアケースのモナコだった。防水性を持たせられない、といわれたスクエアケースを、なぜホイヤーは初の自動巻きクロノに与えたのか?誕生50周年を迎えたいま、その意義を改めて振り返る。

モナコ Ref.1133B

モナコ[Ref.1133B]
1969年に発表された、通称「マックイーン」。販売開始は同年の12月と言われている。ニックネームの由来は「栄光のル・マン」で、スティーブ・マックイーンが腕に巻いたため。Cal.11もしくは12搭載。なお、グレーダイアルの1133Gもある。諸説あるが、総生産数は4500本とも言われる。

「普通のクロノグラフを自動巻き化すると、時計の厚みは2倍になる。商品化は不可能だ」。そう語ったのは、レマニアで数々の名クロノグラフを作り上げたアルバート・ピゲである。1947年、彼は既存のクロノグラフに半回転ローターを重ねた自動巻きクロノグラフを作り上げたが、あくまで試作品だった。以降もさまざまなメーカーが自動巻きクロノグラフの製作を検討したが、み、コストともに、満足できる結果は得られなかった。

 にもかかわらず、各社がクロノグラフの自動巻き化に取り組んだのは、防水性能を高める切り札だったからである。手で巻く必要の少ない自動巻きは、リュウズに内蔵する防水用パッキンを傷めにくい。そのため、時計の防水性能を改善できた。事実、腕時計の問題であった防水性は、防水ケースと自動巻きがセットで普及することにより、ほぼクリアになったのである。ちなみにホイヤーで社長を務めたジャック・ホイヤー(現タグ・ホイヤー名誉会長)は、かつてこう記した。

「クロノグラフが水に浸かると、恐ろしいドラマになった。というのも、部品が錆び、修理には大きなコストがかかったからだ。ケースメーカーのエルヴィン・ピケレ(以下ピケレ)が、防水性のあるプッシュボタンを開発して以降、私たちは防水性のないクロノグラフを決して製造しなかった」

モナコ Ref.1533G

モナコ[Ref.1533G]
1972年初出。12時間積算計を省略したCal.15を搭載することで、初代モデルの薄型として発表。代わりに10時位置にスモールセコンドが備わった。もっとも、本来は1533用の専用ケースを用いるが、1133用のケースに入っている場合もある。生産個数が少ないため、市場で見つけるのは困難だ。

 そんなジャック・ホイヤーが、リュウズのパッキンを傷めない、高い防水性を持つ自動巻きクロノグラフに執着したのは当然だろう。開発に携わったのは、ホイヤーとブライトリング、ビューレンとその親会社であるハミルトン(68年から)、そしてクロノグラフの専業メーカーであるデュボア・デプラだった。

「私たちは初の自動巻きクロノグラフである、キャリバー11の開発に約3年を費やした。私たちはこれが、大きなイベントになることを理解していた。1950年代以降、自動巻き時計が普及した結果、私たちの作るスイス製クロノグラフの輸出は足踏み状態にあったからだ。私たちは67年から68年にかけて準備を整え、69年のバーゼル・フェア(現バーゼルワールド)で発表しようと考えた」。防水性に加えて、アメリカ市場で売るにも、クロノグラフの自動巻き化は必須だったのである。

 ジャック・ホイヤーはまず、ふたつのモデルの自動巻き化を考えた。ひとつは定番の「カレラ」。もうひとつは、アヴィエーションマーケットを意識した「オータヴィア」だった。加えて彼は、自動巻きらしいモデルを加えようと考えた。それが「モナコ」だった。

モナコ Ref.74033N

モナコ[Ref.74033N]
Cal.11系の自動巻きではなく、汎用エボーシュのバルジュー7740を搭載したモデルは、1970年代中頃から生産された。ケースにPVDを施した本作は、最も希少とされる。製造数は100〜200本程度。おそらくは、在庫したケースを処分するために作られたモデルか。

 開発のきっかけは次の通りだ。1960年代後半のある日、ピケレのデザイナーがホイヤーを訪問し、真鍮で出来たケースのモックアップをジャック・ホイヤーに見せた。それはスクエアの、しかも防水ケースだった。「私はそのデザイナーと独占的な交渉権を得て(それが重要なポイントだった)、このスクエアケースの、クロノグラフマーケットにおける独占使用権を得た。というのも私は、ブライトリングや他社が、いきなり採用できない要素を欲しかったからだ」

 1960年代当時、スクエアなケースに防水性を持たせることは不可能と考えられていた。しかし、ピケレは新しいケース構造でこの問題をクリアした。新型自動巻きクロノグラフの計画が、注意深く秘匿されていたことを考えれば、ピケレは、このケースを3針用に作ったのだろう。それを見たジャック・ホイヤーは、ユニークな防水クロノグラフが作れると判断したのである。

 かくして完成したのが、スクエアなケースに自動巻きクロノグラフを搭載したモナコだった。発表は1969年の3月3日。ホイヤー、ブライトリング、ハミルトン-ビューレンは、新しい自動巻きクロノグラフムーブメントとその搭載機であるカレラ、オータヴィア、そしてモナコを、世界に向けて高らかに発表したのである。

モナコ Ref.73633B

モナコ[Ref.73633B]
1972年初出。搭載するのは手巻きのバルジュー7736である。初代モナコの中で、唯一12時間積算計とスモールセコンドを持つ点が他との違いである。バルジュー製のクロノグラフムーブメントを搭載するモデルは、通常の右リュウズとなるためケース自体にも若干の差異が見られる。

 モナコの発表から続く数年は、ホイヤーの最盛期だった。1969年、ストップウォッチを含めたホイヤーの年産数は約37万5000個。うちスイスレバー脱進機を持つストップウォッチはスイス全体の輸出数の39%を占め、ピンレバー脱進機付きのストップウォッチは約28%、そして腕時計クロノグラフは10%の割合を占めていた。翌70年の4月24日には、ホイヤーは株式を上場。1株250スイスフランの売り出し価格に対して、925スイスフランもの価格が付いた。

 僥倖はさらに続いた。1971年に公開された映画「栄光のル・マン」で、主人公を務めたスティーブ・マックイーンが、モナコを腕に着けて出演したのである。しかも、ホイヤーロゴの入ったつなぎを着て、である。ちなみにマックイーンは、当初オメガを着けさせられそうになったという。しかし、マックイーンはこう答えて断った。「いや(着ける時計は)オメガじゃない。彼らは僕の名前を(宣伝に)使うだろうから」。彼は代わりに3本のモナコを選び、それはやがてホイヤーとモナコの名前を轟かせることとなる。

 しかし、ホイヤーの退潮は1970年代初頭には始まっていた。初期の自動巻きクロノグラフは、コストダウンを図ったにもかかわらず高価に過ぎたし、スイスフランの高騰はホイヤーを含む、スイスの時計メーカーに大きな影を落としつつあった。71年、ホイヤーはピンレバー脱進機を載せた「イージーライダー」を合併したレオニダス銘で投入。やがてモナコも、搭載するムーブメントを自動巻きではなく、手巻きの標準的なエボーシュに改めた。続いてホイヤーは、クォーツに方針を転換し、70年代半ばには、野心的なモナコの生産は終了となったのである。