ユリス・ナルダン フリーク Part.3

FEATUREアイコニックピースの肖像
2020.02.13

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最新のシリシウムテクノロジーで武装したR&Dの最前線

2007年の「イノヴィジョン」で、シリシウムへの取り組みを明確にしたユリス・ナルダン。以降同社は、シリコンの特性を生かした新機構を、フリークの新作に盛り込むようになる。その集大成が、2019年に発表されたコンセプトモデル「フリーク ネクスト」だ。

フリーク ネクスト

フリーク ネクスト
2019年発表のプロトタイプ。ベースとなったのはフリーク ヴィジョンだが、テンプではなく、32枚のブレードで構成された、シリシウム製のネクストフライングオシレーターを搭載する。Ti×Pt(直径45mm)。8万6400振動/時。パワーリザーブ約70時間。未発売。

 時計産業における、シリシウム素材のパイオニアとなったユリス・ナルダン。同社は必ずしもシリシウムの採用に固執していなかったが、シリシウム素材にダイヤモンドをコーティングした「ダイヤモンシル」の採用以降、再びシリシウムに復帰した。同社のシリシウム回帰を決定づけたのは、2007年の超大作「イノヴィジョン」である。シリシウム製のヒゲゼンマイや、輪列受け、ブロッカーなどを採用したこのモデルは、ナルダン=シリシウムというパブリックイメージを定めたのみならず、同社の技術開発に、明確な指針を与えることになった。

 初代フリークの発表直後、副社長のピエール・ギガックスはCEOのシュニーダーにこう話したという。「シリシウム素材をフォトレジストで成形すれば、どんな部品も作れる。そして部品の形状がコストを左右することはなくなる。新しい時代の幕開けがやってきたのだ」と。かつて作れなかった部品も、シリシウムを使えば製造可能になる。複雑な形状のシリシウムパーツで武装したイノヴィジョンは、その事実を、ユリス・ナルダンの人たちに再認識させたのである。

 もっとも、当時のナルダンに、シリシウム以外の選択肢は存在しなかったのは事実である。CEOのロルフ・シュニーダーはユリス・ナルダンを独立したマニュファクチュールに 育てようとしたが、スウォッチ グループの傘下にあるニヴァロックス・ファー社がヒゲゼンマイと脱進機を独占している以上、本当の意味での独立は果たしがたかった。他社に依存しないヒゲゼンマイと脱進機を得るなら、新しい素材と製法を選ぶほかない。ルードヴィヒ・エクスリンが「ニヴァロックスに依存しない体制を作るには、シリシウムで部品を作るほかない」と語った理由だ。

ネクスト フライングオシレーター

テンプの代わりを果たすのが、32枚のブレードで構成される、4層のネクスト フライングオシレーターである。素材はシリシウムで、幅はわずか16マイクロメートルしかない。天真をまったく持たないため、理論上は摩擦が大きく減少する。高振動を与えられた理由だ。

 しかし独立化の鍵を握るシリシウムは、極めて不安定な素材だった。同社は代替品としてダイヤモンド素材に目を付けたが、生産コストは信じられないほど高く付いた。ナルダンのR&D部門はシリシウム素材に回帰せざるを得ず、それは必然的に、同社を鍛え上げることとなった。

 軽くて滑らかなシリシウム素材がなければ、エクスリンのデュアル ダイレクト脱進機が世に出なかったのは間違いない。しかし当初のシリシウムは湿気に弱く、ピンセットで触っただけで割れ、急激な温度変化にも弱かった。とりわけ組み立て時の困難さは、熟練した時計師にさえまったく好まれなかった のである。そこで同社はシリシウムに代えて、 シリシウム並みに軽く、より硬く、変質せず、温度変化に強いダイヤモンド脱進機の採用に踏み切った。これが05年の「ダイヤモンドハート」である。当時、副社長のギガックスはこう述べた。「ダイヤモンドは脱進機にとって理想的な素材だ。しかし製造コストは、ニッケルに比べると1000倍以上につく」。コストが合わないと判断したナルダンの技術陣は、07年に、ダイヤモンドではなくシリシウムにダイヤモンド皮膜を被せた、ダイヤモンシル素材を用いるようになった。黎明期ならではの試行錯誤と言えるだろう。

 同年の「イノヴィジョン」で、シリシウムの加工技術をマスターした同社は、翌年、アラーム付きの「ソナタ」で本格的にシリシウム製のヒゲゼンマイを搭載した。加えて脱進機 も、デュアル ダイレクトの改良版であるデュアル インダイレクト(後のデュアル ユリス) ではなく、標準的なスイスレバーとなった。もちろん素材は、鋼でもダルニコ材でもなく、 シリシウムである。ヒゲゼンマイとスイスレバー脱進機をシリシウムで量産できたことは、ユリス・ナルダンの技術革新に、いっそうの弾みを付けることとなった。

 これに先立つ06年、ユリス・ナルダンは、ミモテックと共同で、シガテックという新会社を設立した。シリシウムの成形とLIGAに特化したこの会社は、ナルダンにシリシウムへのノウハウをもたらしただけでなく、シリシウムパーツの量産を可能にしたのである。シガテックとの共同作業の中で、ナルダンのR&D部門はシリシウムの多様な可能性に 気づくようになる。当初、シリシウムのメリットと見なされたのは、慣性が軽く、滑らかで、様々な形状の部品を作れることぐらいだった。しかし、シリシウム製ヒゲゼンマイの開発を通じて、ナルダンは弾性という新しい利点を見出したのである。

フリーク ネクスト
フリーク ネクスト
フリーク ネクストの内外装には発光体が用いられている。ナルダンが言う所のバゲットムーブメントにはスーパールミノバのチューブがあしらわれるほか、ベゼルとケースサイドにはスーパールミノバが塗布される。

 かつて、一部のマリンクロノメーターは、 金属ではなく、ガラス製のヒゲゼンマイを採用していた。そう考えると、同じガラス質のシリシウムには、同様のバネ性を期待できるだろう。

 そのアイデアを余すところなく具現化したのが、19年発表の「フリーク ネクスト」である。脱進機は、シリシウムで一体成形された「ユリス・ナルダン アンカー脱進機」。アンクルの動きは、一体成形されたシリシウム製のバネで制御されるため、振り角が安定する。そして調速機も、テンプではなく32枚のマイクロブレードで構成されている。素材は同じくシリシウム。この脱進機は天真をまったく持たないため、理論上は空気抵抗を除く摩擦がほぼなくなり、ムーブメントの性能は大きく改善される。理論上、テンプに伝わるトルクは、25%増となる。結果、このモデルは8万6400振動/時という高い振動数と、約70時間という長いパワーリザーブを両立できるようになった。シリシウムテクノロジーの恩恵である。

 2001年以降、シリシウムという難しい素材に取り組み続けたユリス・ナルダン。同社の地道な取り組みは、いよいよ機械式時計の常識を塗り替えるフリーク ネクストに結実したのである。