「時計を変えた新素材」。進化する〝シリコンマジック〟をブレゲ、ジラール・ペルゴ、オメガ、ルイ モネから見る

2025.09.01

近年、時計市場に普及する“新素材”。外装やムーブメントに従来にはなかった素材を用いることで、時計は形状や色といった意匠の面ではもちろん、性能面でも大きく変化した。『クロノス日本版』112号で「時計を変えた新素材」として、そんな“新素材”を特集した記事を、webChronosに転載する。今回は機械式時計に高い耐磁性と耐衝撃性をもたらしてきたシリコン素材だ。さらにこの素材は自らも進化することで、新しい可能性を広げている。

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星武志:写真
Photographs by Takeshi Hoshi (estrellas)
広田雅将(本誌):取材・文
Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
Edited by Hiroyuki Suzuki
[クロノス日本版 2024年5月号掲載記事]


ムーブメントの基礎体力を向上させたシリコンマジックの現在

 2000年代以降に普及したシリコン素材は、機械式時計の在り方を大きく変えた立役者だ。軽く、磁気にも強く、そして複雑な形状に加工できるこの素材は、機械式時計に高い耐磁性と耐衝撃性をもたらしただけでなく、新しい機構をも実現可能としたのだ。そんなシリコン素材が今、さらなる進化を遂げようとしている。


機械式時計の在り方を大きく変えたシリコン素材

ブレゲ「タイプ 20 2057」

ブレゲ「タイプ 20 2057」
2023年に発表されたタイプ XXのミリタリー版が2057。直線状のリセットハンマーにより、スムースなフライバックを可能にした他、高振動により極めて高い精度を誇る。現時点におけるフライバッククロノグラフの集大成。自動巻き(Cal.7281)。34石。3万6000振動/ 時。パワーリザーブ約60時間。SSケース(直径42mm、厚さ14.1mm)。10気圧防水。(問)ブレゲ ブティック銀座 Tel.03-6254-7211

 時計業界に初めてシリコンを導入したのは、2001年のユリス・ナルダン「フリーク」である。同社がシリコンという、海のものとも山のものとも付かぬ新素材を選んだ理由はいくつかある。ひとつは、同社が採用した新型脱進機を作るために、軽い素材が必要だったこと。同社は当初アルミで脱進機を試作したが、柔らかすぎて実用に至らなかった。そこでユリス・ナルダンは、マイクロエンジニアリングの世界で使われている、シリコンの採用に踏み切った。しかもフォトレジストで脱進機を製作すれば、かつてないほど極めて精密な形状を与えられるというメリットがあった。

 しかしその後、もうひとつの理由がシリコン素材の普及を後押しした。当時、ヒゲゼンマイの製造はスウォッチ グループの傘下にあるニヴァロックス・ファーが独占していた。そのため彼らから距離を置かれた各社は、生産が容易なシリコン製のヒゲゼンマイに目を向けるようになった。加えてシリコン製のヒゲゼンマイには、磁気帯びせず、ショックに強く、形状を変えることで機械式時計の精度を改善できるという可能性があった。まず製品化したのはユリス・ナルダンとパテック フィリップ。しかし、スウォッチグループもシリコン素材に未来を見出し、ブレゲやブランパン、そしてオメガなどに採用するようになった。

ブレゲ「Cal.7281」

ブレゲ「Cal.7281」
フライバックに特化したクロノグラフムーブメント。慣性が小さく、注油の必要がないシリコン製脱進機により、3万6000振動/時という超ハイビートと、安定した精度を誇る。ヒゲゼンマイもシリコン製。自動巻き。34石。3万6000振動/時。パワーリザーブ約60時間。

ブレゲ「Cal.7281」

ブレゲ「Cal.7281」
精度と耐磁性を高めるため、ガンギ車とヒゲゼンマイにシリコンを採用してきたブレゲ。Cal.7281と、3カウンターのCal.728も例外ではない。高振動と復元性の高いシリコンヒゲゼンマイの組み合わせにより、姿勢差誤差と携帯精度がさらに改善された。

 そのサンプルのひとつが、ブレゲの新しい「タイプ20」(及びタイプXX)である。3万6000振動/時という超ハイビートを可能にしたのは、軽くて注油の必要がないシリコン製の脱進機だ。シリコンの比重は2.33g/㎤と、鋼の約3分の1しかない。そのためシリコン製のガンギ車は慣性が小さく、トルクのロスが抑えられる。主ゼンマイのトルクを増やさずとも、ハイビート化ができる理由だ。しかし、より重要なのは注油の必要がないことだった。かつて、ゼニスのCEOだったアルド・マガダは、同社がシリコン製の脱進機を採用した際にこう述べている。「脱進機をシリコン素材に置き換えることで、ハイビートに起こりがちな油切れから解放される」。これは、ブレゲのタイプ20も同様である。

 しかし、最近はシリコンの特性を活かした新しい試みも増えてきた。それが、素材の弾性を活かして、複数の機能をまとめた「コンプライアント機構」である。これは、ネジやバネなどの機械要素とその他の構造体をひとつの部品にまとめたもの。部品点数を減らせるうえ、製品の軽量化も期待できるというメリットは、サイズの小さな腕時計では大きな意味を持つ。

ジラール・ペルゴ「ネオ コンスタント エスケープメント」

ジラール・ペルゴ「ネオ コンスタント エスケープメント」
2013年に発表された「コンスタント エスケープメント L.M.」の後継機。一定のトルクを供給するコンスタント エスケープメントを実現したのは、弾力性のあるシリコン素材だった。手巻き(Cal.GP09200-1153)。29石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約7日間。Tiケース(直径45mm、厚さ14.8mm)。3気圧防水。(問)ソーウィンド ジャパン Tel.03-5211-1791

ジラール・ペルゴ「ネオ コンスタント エスケープメント」

 その先駆けは、2013年に発表され、2024年に再びリリースされたジラール・ペルゴの「コンスタント エスケープメント」だ。この脱進機は、輪列の回転運動でブレードを曲げ、その復元する力でアンクル状の部品を左右に振り、テンプを動かすというものだ。シリコンの弾性を使った定力脱進機の先駆けである。しかしこれは同時に、複数の機能をまとめたコンプライアント機構のパイオニアでもあった。写真が示すとおり、定力装置の役目を果たすブレードとそれを支える枠、そしてブレードと一体化されたアンクルはひとつの部品にまとめられている。ブレードを十分に屈伸させるため、コンスタントエスケープメントはかなり大きいが、機構としてはかなりシンプルなのである。ちなみにユリス・ナルダンの「ユリス・アンカー・エスケープメント」や、ゼニスの「デファイラボ」が搭載した「ゼニス オシレーター」もシリコンのメリットを活かしたコンプライアント機構である。とりわけ後者は、テンワ、ヒゲゼンマイ、アンクルをシリコンで一体成形した究極のコンプライアント脱進機だったが、生産性に難があり、製品化には至らなかった。

コンスタント エスケープメント

一定のトルクを供給するシリコン製のパーツ。中央のブレードがたわみ、反発で戻るエネルギーを使って、テンプを左右に振る。そのため主ゼンマイのトルクに依存することなく、一定した力をテンプに伝えられる。製造はミモテック社と、ジラール・ペルゴの親会社であるソーウィンド・グループが共同所有するシガテック社による。

コンスタント エスケープメント

コンスタント エスケープメントの鍵となる、たわんで復元するブレード部分。その幅はわずか14ミクロンしかない。なお、基本的な設計は2013年モデルに同じだが、新型はブレードの安定性と、伝達効率の改善が図られた。ヨーロッパ特許EP3599514。

 ともあれ、シリコンの可能性が大きく広がった背景には、素材としての進化がある。当初のシリコン素材は、破断しやすく、湿気の影響を受けやすかった。ユリス・ナルダンでシリコンの開発に携わったルートヴィヒ・エクスリン博士も、シリコン製ヒゲゼンマイの発表時に「初期のシリコンは低温での性能が悪く、急激な温度変化にも弱かった」と率直に認めている。コンスタント エスケープメントを開発したステファン・オエスも、研究が始まった時点では「シリコンは曲げると折れると思っていた。そのため既存の素材で新しい脱進機を作ろうと考えていた」と筆者に語っている。対して各社は、表面の酸化処理などで、腕時計に使われるシリコン素材の物性を改善。2010年代半ばになると、シリコン製の部品は十分な実用性を備えるようになった。

ジラール・ペルゴ「Cal.GP09200」

ジラール・ペルゴ「Cal.GP09200」
2013年に発表されたCal.GP09100の後継機。コンスタント エスケープメントは基本的に同じだが、ムーブメントの部品点数が280個から 266個に減り、時分針もムーブメントの中心に移された。手巻き。29石。パワーリザーブ約7日間。C.O.S.Cクロノメーター。

 シリコンの進化がもたらした驚くべき機構が、オメガの「スピレートシステム」だ。ヒゲゼンマイを直接触って歩度を調整するのは従来の緩急針に同じ。しかし繊細なシリコン製のヒゲゼンマイは、そもそも緩急針で挟めない。すべてのシリコン製ヒゲゼンマイを持つムーブメントが、緩急針を持たないフリースプラングであった理由だ。対してオメガは、シリコンの外端に圧力をかけ、ヒゲゼンマイのテンションを変えることで緩急を調整するという、全く新しいシステムを完成させた。シリコンを直接触るという時計業界の禁忌をクリアした背景には、間違いなく、改善されたシリコン素材がある。

スピレートシステム

スーパーレーシングの鍵を握るスピレートシステム。割れやすいシリコン製のヒゲゼンマイに、緩急針を付けるのは不可能である。対してオメガは、外端に圧力をかけることで、ヒゲゼンマイを変形させ、遅れ進みを調整できるようにした。設計はオメガ、製造はニヴァロックス・ファーが受け持つ。ヨーロッパ特許EP4009115。

オメガ「スピードマスター スーパーレーシング」

オメガ「スピードマスター スーパーレーシング」
シリコン製のヒゲゼンマイに触ることで、歩度の緩急を調整するという“禁じ手”を実現したモデル。スイス連邦計量・認定局(METAS)が認定した精度は、なんと±0~+2秒/日以内。シリコン製ヒゲゼンマイの可能性を広げるモデルだ。自動巻き(Cal.9920)。54石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約60時間。SSケース(直径44.25mm、厚さ14.9mm)。5気圧防水。(問)オメガお客様センター Tel.03-5952-4400

 もうひとつの試みが、文字盤にシリコンを敷き詰めたルイ モネの「アストロネフテクノ」だ。時計に使われるシリコンは十分な酸化処理を施すため、基本的には単色だ。しかし構造色を持つシリコンウェハーは、そもそも光の加減で色を大きく変える。本作は機能ではなく、シリコンの色に着目した初の時計だ。追随するメーカーがあるかは分からないが、これもシリコン素材の新しい可能性と言えるだろう。

 今や当たり前の素材になった感のあるシリコン素材。しかし、今後この素材は、ますます普及するに違いない。というのも、シリコン製ヒゲゼンマイの特許がそろそろ切れるだけでなく、より大きなシリコンウェハーが普及しつつあるためだ。

ルイ・モネ「アストロネフ テクノ」

シリコンウェハーの特徴は、光が干渉して色を変える構造色を持つこと。光の加減によって薄膜干渉が起こるため、シャボン玉やCDのように色が変わる。時計業界が注目する構造色を、処理ではなく素材で実現した、極めて珍しい試みだ。もっとも、理論上の歩留まりは悪いため、ハイエンドモデル以外への普及は難しいだろう。

ルイ・モネ「アストロネフ テクノ」

ルイ モネ「アストロネフ テクノ」
上層のトゥールビヨンが5分で1回転、下層は10分で1回転するサテライトトゥールビヨンに、シリコン製文字盤を合わせた試み。構造色により、文字盤は様々に色を変える。シリコンの新しい方向性だ。手巻き(Cal.LM105)。56石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約48時間。Tiケース(直径43.5mm、厚さ18.3mm)。1気圧防水。(問)ジーエムインターナショナル Tel.03-5828-9080


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