アヴァンギャルドなデザインで知られるハイゼックは実のところ、スイスでも極めて珍しい複雑時計に特化したマニュファクチュールである。2007年に始まった同社の内製化は社主であるアルジョード氏の指揮の下、極めてユニークな形で結実することになった。その時計作りを、現場で見ることにしたい。

Photographs by Masanori Yoshie
広田雅将(本誌):取材・文
Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
Edited by Yuto Hosoda (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2026年3月号掲載記事]
エタブリスールからマニュファクチュールへの脱皮

ハイゼックのお家芸であるスケルトントゥールビヨンに、ジャンピングアワーとダイレクトリード式の分表示を合わせた限定モデル。地板そのものも、トラス状に肉を抜く徹底ぶりだ。手巻き(Cal.HW22)。2万1600振動/時。パワーリザーブ約42時間。18KRGケース(直径45mm)。30m防水。世界限定88本。2200万円(税込み)。
デザイナー、ヨルグ・イゼックの興したハイゼックというメーカーにはふたつの顔がある。ひとつはイゼックの好んだ、前衛的でエルゴノミックなデザインウォッチの製作者。もうひとつは、スイスでも稀な、コンプリケーションメーカーとしての顔だ。
現在、ハイゼックを所有するのはフランスのアルジョード家である。当主のアクラム・アルジョード氏は他にもパリのジュエラーであるペランなどを所有するほか、多国籍コングロマリットのIBGの関連会社である、IBGフランスホールディングスの総帥も務めている。あまり表に出てこない彼だが、フランスのラグジュアリー分野で、最も成功したひとり、と言えるだろう。

「もともと私は時計やラグジュアリーなもの、そして他にはないものが好きでした。ハイゼックを見たとき、アヴァンギャルドでいい時計だと思いましたね。それにハイゼックには資源もやる気もありましたから。そこで同社の買収を決めたのです。ヨルグ・イゼックは素晴らしいデザイナーだし、今後もいろいろなことを実現できると思ったからですね。ちなみに私は同時期にロジェ・デュブイにも出資しましたね。こちらの会社が作る時計は、ハイゼックと違ってクラシックだった」(アルジョード氏)

存在感あるハイゼックの時計に魅せられたアルジョード氏は、2000年に同社を傘下に収め、その舵取りをすることになった。同時にマニュファクチュール化に向けて増資を募っていたロジェ・デュブイにも投資を決め、大株主としてその経営に関わるようになる。
そんな状況が一変したのは08年のこと。リシュモン グループがロジェ・デュブイの60%の株を取得したのである。その8年後、アルジョード氏は所有するすべてのロジェ・デュブイ株を同グループに売却し、もうひとつの時計メーカーであるハイゼックに注力することに決めた。併せて彼は経営体制の変わったロジェ・デュブイから腕利きの職人たちを招聘。デザインに注力していたハイゼックは、以降極め付きの複雑時計を作ることになった。アルジョード氏はこう説明した。「マニュファクチュール化に踏み切った理由は、今まで見たことのない時計を作るため、ですね」。

ハイゼックの部品製造工場は、スイスのルナン駅から車で15分の所にある。外見からは時計工場であることがまったく分からないのは、貴金属などの高価な素材を扱っているため。重い金属の扉を開くと、新旧の工作機械がずらりと並んでいる。説明してくれたのは、工場責任者のポマール・ユアン氏だ。精密部品の製造に携わって30年に及ぶ彼は、かつてロジェ・デュブイで同じような仕事をしていた。
「ハイゼックの工場ができたのは07年のこと。しかし工場のセットアップには1年かかったよ。現在は複雑時計の歯車やテンワはもちろん、金やステンレススティール製のネジ、複雑なケースも自製するようになった」。彼曰く、複雑時計に使われるムーブメント部品の内製率はなんと95〜96%。「昔はガンギ車も自製していたが、今は外注している。作ろうと思えばできるが、製造効率は良くなかったからね」とのこと。

面白いのは、最新の工作機械だけを使っているわけではないこと。一昔前にメジャーだったAlmacの3軸CNCが、ここではまだメインを張っている。「一番おいしいソースは古い鍋で作られるのさ」とユアン氏は笑ったが、±2〜3ミクロンという加工精度を叩き出せる理由は、腕利きの熟練工がそろえばこそだ。加えて工作機械の操作はもちろん、加工のプログラミングなども担うという仕事の幅の広さが、彼らのモチベーション源となっている。
「コロッサル」のような特段に複雑な時計の部品を安定して生産できる鍵のひとつは、材料の下加工にある。ユアン氏曰く、ブランクの種類は厚さ0.9mmから9mmまで60以上。地板に使われるブランクに至っては、研削して、厚さ10分の1mmごとに違うものを用意するとのこと。「私たちが複雑時計の部品を作れる理由は、加工に使う材料の段階で精度を追い込んでいるため。そして、例えばスケルトンの地板は90gの素材を、4時間かけて8gまで削り込む。もっとも、機械の調整だけで2時間かかることもあるけどね」。


そして完成した部品は、エメリーペーパーで表面を均し、入念にバリ取りを行っていく。ケースも同様で、厚さ65mmの棒材をくり抜き、ケースに仕上げていく。確かにこれだけ優れた職人がそろえば可能なのは分かるが、よく少量多品種を実現できるものだ。「うちは工業製品を作っているわけじゃないからね。それにひとりひとりのできることが多いと、仕上がりをより良くできるし、問題があればすぐに改善できる」(ユアン氏)。現在、同社が部品の製造に関わるヤーマン&ストゥービも同様だ。彼らは欠品した部品を製作し、その再生産を可能にしたのである。
完成した部品は、外部のサプライヤーでメッキなどの追加処理を経て、モルジュにあるハイゼックの本社兼工房に運ばれる。ここで組み立てられるのは、ハイゼックの全コンプリケーションと、エントリーモデルの一部、そしてハイゼックに設計・製造が委託されているゴルフウォッチ、ヤーマン&ストゥービのすべてだ。ここも部品工場に同じく、職人の担う幅が広い。超複雑時計がメインだから当然かもしれないが、穴石の打ち込みといったサブアッセンブリーの工程も、ひとりの時計師が担うのである。しかも、ムーブメント部品やケースの磨きも時計師が行うというから、工房で行われる作業内容はマイクロメゾンに変わらない。

「少量生産だからすべて自前でやっている」と時計師のオリベイラ氏は笑うが、だからこそ腕利きの時計師たちが定着するのだろう。ちなみにオリベイラ氏も、かつて在籍していたのはロジェ・デュブイとのこと。「ハイゼックに在籍して10年になるかな。この会社は本当のマニュファクチュールだから、時計を組み上げていくのは本当に素晴らしいんだ」。そんな彼に、今まで手掛けた時計の中で一番大変だったのは何かを聞いた。「それはコロッサルだね」。
同社が2017年にリリースしたコロッサルは、デジタル表示による時分秒と永久カレンダーに3D ムーンフェイズとGMT、そしてフライングトゥールビヨンを合わせた、極め付きの複雑時計だった。使用される部品点数は1000以上。同社は3年を費やして、この時計を完成させた。筆者はてっきり、組み立ては外注と思っていたが、そうではなかったのである。
「コロッサルの部品だけを製造するのに2年、組み立てだけで1年を要したよ。設計上求められる組み立て公差は±6ミクロンだった。しかしその公差で組むと時計が動かないので公差は詰めたよ(笑)。すべての公差を±5ミクロン以内に収めるのは本当に大変だった」
彼以外の時計師たちは「フレキシブルに作業できるのがこの会社の魅力」と口々に語る。しかし、世界広しと言えども、ベーシックな3針も、ヤーマン&ストゥービのようなカウンターウォッチも、そしてコロッサルのような超複雑時計も、同じ時計師が手掛けるメーカーは他にないのではないか。しかも、ハイゼックは納期を守ることに誇りを持っている。

「私たちはある会社にトゥールビヨンを30個作ってほしいと頼まれました。短納期で作れたのはハイゼックだけでしたね。私たちのマニュファクチュールは上手く管理できていると思っていますね」(アルジョード氏)。
今や驚くほど高レベルなマニュファクチュールとなったハイゼック。しかし、本文で再三述べてきたように、その歩みは他社とは大きく異なる。「大きな企業であれば、マニュファクチュール化するために下請けを使うでしょう。しかし私たちは違うのです。ハイゼックにおける合理化とは、柔軟であることなんですよ。そしてそれこそが、スイスの伝統ではないでしょうか。私たちは、そのカルチャーを全員で作り上げ、ノウハウを積み上げ、時と共に大切にしてきたのです」。
その種類を問わず、ハイゼックの時計はモダンで、ある種革命的だ。しかし、アルジョード氏はこうも語った。「私たちはスイス時計業界の伝統を継いでいます。製法も、会社としての在り方も。ですが、今までにない時計を作っていきたいのです」。なるほどこれが、ハイゼックというブランドを駆り立てるエネルギーか。「生きた」人々が関わればこそ、その製品には唯一無二の命が宿る。

スケルトントゥールビヨンウォッチ。2010年の発表から仕様を変えながら製造され続ける代表作のひとつだ。手巻き。2万8800振動/時。パワーリザーブ約70時間。Ti×18KPGケース(縦51×横44mm、厚さ14mm)。30m防水。1760万円(税込み)。
ハイゼックが手掛ける新生ヤーマン&ストゥービ

ふたつのボタンでホールごとのストローク、総ストローク、そしてプレーのホール数をカウントできるゴルファー専用時計。ラバーを使った耐衝撃機構などにより、スイング時のインパクトにも耐えられる。自動巻き(Cal.A10-2)。25石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約42時間。SSケース(直径44mm、厚さ11.6mm)。100m防水。121万円(税込み)。
現在、ヤーマン&ストゥービのオーナーがハイゼックの日本代理店であるミスズである。部品の供給停止に直面したミスズは、付き合いのあったハイゼックにその製造と組み立てを依頼することになった。複雑時計を得意とするハイゼックだが、カウンターウォッチを主とするヤーマン&ストゥービの組み立てはかなり難しいとのこと。とりわけふたつの偏心ネジで5つの部品を位置決めするゴルフカウンターは、部品をヤスリで加工して微調整する必要がある。





