松山猛の台湾発見「台北の夢」

LIFE松山猛の台湾発見
2018.05.26
台北市内にある、国立故宮博物館。中国歴代王朝の皇帝たちが収集した美術工芸品コレクションを保存、展示する。故宮が「古い宮殿」を示すように、ここはかつて皇帝たちが暮らした紫禁城であった。1987年にはユネスコの世界遺産にも認定され、歴史的建造物としても見応えがある。

 その皿はもう売れていた。しかし5軒ほどの店の棚やショーウインドウを見ると、いろいろな焼物があるわあるわ。
 青磁の大皿の中央に、レリーフ状に釉をかけずに盛りあげた龍のある物、闘彩の薄手の成化写しの茶碗。宋風のとろんとした陰花紋の碗、紫砂の上に粉彩の花をあしらった茶入れ。 そのうちの1軒をふとのぞき込むと、けっこうな魚の絵の染付けがあるではないか。うむ、これも悪くはないな、と思いつつ、しゃがみ込みながら視線を下げた僕は、そこに思いもかけぬ物を見つけたのだ。
 高台を取りまくように、波の紋様が染付けられている。これはまぎれもなく清朝乾隆期の 「青花魚藻盌」そのものではないか。
 これは故宮にある物と同時期の民窯の作でもあろうか。骨董屋の親父さんは、日本語が上手であった。
「これは乾隆の頃のですよね」
「目が高いね、民窯の物だけどよく出来てると思いますよ」
「あっちの闘彩の鶏の絵のは、昨日華西街の角でも見たなあ」
「あれは中華民国になってからの復製で、香港あたりによく出廻る品だよ。どうだね先生、これをどうせなら持っていきなさい。私もこれ売ったら、もう二度と手にできないけど」と「魚藻盌」を親父はすすめる。
「だって高そうだからなあ」
「NTで1万元にしてあげるよ」
 この手の器は、NTで1万2000元くらいが相場である。日本円で約10万円くらいはすると踏んでいたから、これは買いだな、しかし他にも茶入れとか欲しい物があるから、どうせならこの店でひとまとめに買って、と考えたのである。
 結果として、この親父さんから、たくさんの話が聞け、買物以上に貴重な勉強ができたわけだ。
「青花魚藻盌」は結果的に1万元をもう少し切り、清末の無款ではあるが、元気の良い青花龍紋の茶葉入れも手に入れた。これは1対になっていたが、いつか片われを引き取るよと、片方だけを分けてもらったのだ。
 故宮に話が及ぶと、親父さんの眼が輝いた。骨董屋の主人をして、こんなに饒舌たらしめる博物館の素晴しさを、改めて僕は考えてしまったのだ。
「官窯というのはね、あれは中国の宝物ね。先生も一生のうちに、一度くらいは本物に出会えるでしょう。しかし、あれはだれにでも買えるという物ではないのですよ」
 僕の手に渡った「青花魚藻盌」は口辺の鉄釉が、少しにじんでいる。完全主義の景徳鎮では1000を焼いて10を取る、といわれるし、あとの990は割られるはずなのだが、こいつは、どういうわけか生き残ったらしい。
 黄釉地に緑の龍紋、紫の花をあしらった皿や、西太后の私窯だった大雅斉銘の、えらく派手な粉彩手の物にも、心がぐらりとしたがとにかくこの旅では「青花魚藻盌」に、僕は呼びよせられていたように思う。あまりにも時間が足りなかった。もっと多くの物を見たいと願ったが、帰るべき日が来てしまったのだ。絶対に値切れないし、しかも素性がわからぬ物が多かったが、華西街の角の骨董屋にも、もう一度行かねばなるまい。

 どうせなら、今度は茶の新芽が伸び、それが採まれるようになる4月の下旬に、もう一度この島に出かけようと思う。果して大雅斉や黄瀬緑彩龍紋の皿が、僕が行くのを待っていてくれるだろうか。
 はじめて恋愛をした時代のように、我が魂はこのところ、高鳴るばかりなのである。

松山猛プロフィール

1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。