松山猛・著『せらみか』より
(1993年、風塵社刊)
僕はその日1日の行程を想い出していた。その朝は名間郷松山村という、僕の姓と同じ地名の村で迎えた。烏龍茶の産地を巡りたいという計画を、亜東関係協会新聞広報部の朱さんに話した時、「それならば家内の実家が茶の商売をしているから、1晩泊まったらいいですよ。台湾の田舎に、じかに触れられるでしょうから」と、意外な話になった。
張さんという方の家で、御主人は小学校の教頭先生をしておられ、お店の方は奥さんが切り盛りをしている家である。
名間のは鹿谷の烏龍茶とはちがって、松柏長青茶という種類。松柏嶺という山の大地で採れるからその名が付いた。
前日の夕刻に張家に着き、その夜は家庭料理をいただいて、日本語のわかる隣家の雑貨屋のおばさんに、村を案内してもらった。
夜だというのに、村の中がにぎわっているのは、ちょうど夏茶の製造が始まったからに他ならない。さきほどまで、村の古老の家の1階に置かれた、ビリヤード台に群がっていた高校生くらいの年頃の少年たちが、今度は製茶のマシンを真剣なまなざしで操っている。
その夜は、かなり遅くまで、機械の廻る音がした。夜半に目覚め、時計を見ると1時頃だったのに、まだ人の働く気配がしていたのである。
そして朝、皆がたった1晩だけの来訪者であった僕たちに、別れを惜しんでくれる。
「松山さんは、ここにまた来なくては、ここはあんたと同じ名前の村だからね」
雑貨屋のおばさんがそう言った。おばさんはしばらく、自分の本当の甥であるかのように、僕の手を握りしめて離さなかったのだ。
旅は良い出逢いと、そして少々のセンチメンタルの繰り返しなのだと思う。失ったふる里探しをするかのように、このところ2ヶ月に1度、台湾を歩いてしまっている。
「俺このあいだ銀座へ仕事に出かけて、ふと思ったんだけど、今年は銀座を歩く日より台北の中山北路を歩いてる方が多いんだ。しかもだよ。その俺は東京に住んでるんだからなあ」
「その気持ちわかりますよ」と写真家の佐藤が言う。彼は1年ほど前から、何かというと台北へ連れてってくださいと言っていたのが、こうして実現し、心底楽しそうだった。
「それに、こうして民家に泊めてもらうなんて考えてもいなかったし」。
名間郷から一度南下し、銘茶凍頂烏龍を産する鹿谷へ行き、その農会の案内で凍頂山の農家を訪ねた。昔風の農家は昭和3年に建てられた清朝風のたたずまいであった。86歳と75歳の蘇志兄弟が、石畳の前庭で老人茶をごちそうしてくれ、それを佐藤が撮影するうち、どんどんと雲行きが怪しくなった。