バーゼルワールドが迎えた“転換点”

FEATURE本誌記事
2019.03.14
奥山栄一、三田村優:写真 Photographs by Eiichi Okuyama, Yu Mitamura
鈴木裕之、広田雅将(本誌)、鈴木幸也(本誌)、細田雄人(本誌):取材・文
Text by Hiroyuki Suzuki, Masayuki Hirota (Chronos-Japan), Yukiya Suzuki (Chronos-Japan), Yuto Hosoda (Chronos-Japan)

 毎年3月末に開催される時計と宝飾の見本市、バーゼルワールド。2016年に1500社を超えた参加メーカーは、17年には1300社に減り、今年は850社にまで減少した。

 理由はふたつある。まずは賃料の高騰。13年、中国市場における時計人気の高まりを受けて、バーゼルワールド事務局はメッセのお色直しを行った。その費用は推定で4億3000万スイスフラン。結果賃料は高騰したが、出展社数と来場者数の増加は、問題を表面化させなかった。事実、13年に約12万2000人を数えたバーゼルワールドの来場者数は、14年には約15万人に急増した。

 そこに水を差したのは中国の景気悪化だった。14年以降の急激な売り上げ減は、参加メーカーに、賃料に対する不満を抱かせることとなった。「バーゼルにブースを出すだけで、100万スイスフランもかかる」。そう不満を漏らしたのは、ヴァルカンCEOのレナト・バノッティである。バーゼルの事務局に100万スイスフランの賃料を払うためには、期間中に1000万〜1500万スイスフランの売り上げを立てる必要がある。しかし、それだけの実績を上げられるスイスメーカーは決して多くない。大グループのモバードでさえ、である。17年、モバード グループはバーゼルワールドに1000万スイスフランを投じたが、見返りは多くなかった。18年に同グループはバーゼルワールドを撤退し、小規模なフェアに投資することを決めたのだ。

クレドール 叡智II

クレドール 叡智II
2014年にリリースされた叡智IIの素材違い。18KRG素材を冷間鍛造で成形してケースに仕立てている。結果、以前より面が出ている。インデックスやロゴには新たに調色された釉薬を採用。しかし、この時計で語るべきはディテールを超えた、非凡なまとまりである。手巻きスプリングドライブ(Cal.7R14)。41石。パワーリザーブ約60時間。18KPG(直径39mm)。3気圧防水。430万円。
問 オメガお客様センター Tel.03-5952-4400
シーマスター

オメガ シーマスター
オリンピック コレクション マスター クロノメーター

金・銀・銅メダルをモチーフした「オリンピック コレクション」のプラチナ限定モデル。ただでさえ難しいブラックのグラン フー エナメルを、中心が盛り上がったボンベダイアルに施した稀少な野心作。その仕上がりは見ての通り、艶やかな中にも思慮深く奥ゆかしい表情を浮かべる。自動巻き(Cal.8807)。35石。2万5200振動/時。パワーリザーブ約55時間。Pt(直径39.5mm、厚さ11.98mm)。60m防水。世界限定100本。406万円。
問 セイコーウオッチお客様相談室 Tel.0120-061-012


 もちろん、賃料を払えるメーカーも存在する。例えば「ビッグ5」(ロレックス、パテック フィリップ、スウォッチ グループ、ショパール、そしてLVMHグループ)の中でも、とりわけ存在感を示すロレックス。同社はメインホールの1階に、チュードルと合わせて極めて大きなブースを構えている。バーゼルワールドに投じる費用は、推定で年間3000万スイスフラン以上。しかしロレックスの売り上げを考えると、この投資は極めて小さい。パテック フィリップも、数千万スイスフランを投じているそうだが、売り上げに占める割合はやはり小さい。18年のバーゼルワールドで、LVMHグループの時計部門を率いるジャン-クロード・ビバーはこう語った。「確かに今年のバーゼルワールドからは時計メーカーが減った。しかし運営側の収益で言えば、その減少幅は3〜5%程度に過ぎない。数字で言えばバーゼルワールドはあまり影響を受けなかったし、今後も私たちはバーゼルに留まるだろう」。確かにビッグ5がいる限り、バーゼルワールドは安泰かもしれない。

 しかし、もうひとつの要因が、バーゼルワールドを危うくするという見方もある。それが17年に始まった新しいスイスネス法だ。17年の1月1日まで、ムーブメントの製造コストの50%がスイスに払われていれば、その時計はスイスメイドを名乗ることができた。しかしそれ以降、ムーブメントが60%、外装でも60%を満たさない限り、その時計はスイスメイドを名乗ることができなくなった。

オイスター パーペチュアル GMTマスター Ⅱ

ロレックス
オイスター パーペチュアル GMTマスター Ⅱ

自動巻き(Cal.3285)。31石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約70時間。SS (直径40mm)。100m防水。88万円。
問 日本ロレックス Tel.03-3216-5671

 外装部品の大半を中国に仰いでいた中小メーカーは、あわててスイス国内のサプライヤーを探し、それは時計の製造コストを跳ね上げることとなった。本来なら商品価格に転嫁すべきだが、景気が悪いためにそれは難しい。となれば、マーケティング費用を削減するか、バーゼルワールドへの出展をやめるしかない。事実、バーゼルワールドを撤退したあるメーカーのディレクターは筆者にこう語った。「もしスイスネス法が変わっていなければ、バーゼルワールドに留まっていたかもしれない」。ちなみに昨年、バーゼルワールド事務局は「参加者の減少をむしろ歓迎する」という声明を出した。彼らはスイス国外の出展メーカーが減ることを予想していたのだが、蓋を開けてみたところ、離脱したメーカーの9割はスイスメーカーだったのである。

 さらにもうひとつ理由を挙げると、見本市そのものの地盤沈下が考えられるだろう。今から四半世紀前、各時計メーカーは、売り上げのほとんどをバーゼル・フェア(現バーゼルワールド)に頼っていた。しかし、今やその割合は、メーカーによっては5割を切っている。エルメスがバーゼルワールドを離れ、SIHHに展示会場を移した一因である。

 では今後、バーゼルワールドはどのような方向へと向かうのか。ある著名な時計ジャーナリストは「2020年にはバーゼルワールドは終わる」と予言した。スウォッチ グループの関係者も「スウォッチ グループの内部からさえ、バーゼルワールドから出ようという声が上がっている」と述べる。彼らに限らず、バーゼルワールドを語る人たちの多くは、その将来に対して悲観的だ。


 しかし、筆者はバーゼルワールドが存続するだろうと考えている。確かに受注会という意味合いの少なくなった現在のバーゼルワールドは、以前ほどの重要性を持たなくなった。また〝傲慢な〟バーゼルワールド事務局を嫌う関係者も少なくない。にもかかわらず、バーゼルという名前は、スイスの時計産業にとって不可分であり、今後もそれは変わらないだろう。また幸いなことに、バーゼルワールド事務局は、以前に比べてはるかに弾力的な運営を行おうとしている。であれば、留まろうとするメーカーも、今後はもう少し増えるかもしれない。事実、今年でバーゼルを離れる予定だったブライトリングは、少なくとも来年は留まることになったようだ。
「たゆたえど沈まず」。今後もバーゼルワールドが、時計好きにとって心躍る場所であり続けますように。    (広田雅将:本誌)