“スパイウォッチ”は実在した! ハンハルトのマイク内蔵型クロノグラフウォッチ

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2023.04.26

1882年にドイツで創業したハンハルトは、ドイツの海軍や空軍、フランス空軍に腕時計を納入していた歴史を持つ時計メーカーだ。パリにある時計宝飾店エミール・レオンのブティックには、ハンハルトが所蔵する本物の“スパイウォッチ”が展示されている。CIAのスパイが使用したこの腕時計のストーリーを紹介しよう。

ハンハルトのスパイウォッチ

冷戦時代にCIAのスパイが使用した、ハンハルトのクロノグラフウォッチ。
Originally published on Montres De Luxe
2023年4月26日掲載記事


冷戦時代に使用された“スパイウォッチ”の物語

 1977年7月15日、アメリカ人のマーサ・ピーターソンは、モスクワにおいて諜報活動の罪でKGB(ソ連国家保安委員会)に逮捕された。その時彼女が着用していたのは、小さなマイクが内蔵されたハンハルトのクロノグラフであった。

諜報活動用の道具

諜報活動で使用された道具たち。腕時計にはプロトナ製の小さなマイクが組み込まれていた。

 スパイの仕事は、情報を見つけ、それを伝えることだ。もちろん、できるだけ目立たない方法で遂行せねばならず、露見すれば命にも関わる。そんなリスクの高い仕事だからこそ、諜報活動には最先端の技術が積極的に導入されてきた。

『007』シリーズや『キングスマン』『善き人のためのソナタ』など、多くのスパイ映画では、さまざまなガジェットを使って情報を収集、保存、保護、伝達するスパイたちの姿が描かれてきた。

 そういった姿は往々にして「やり過ぎ」ではあるものの、彼らが日常的にシークレットデバイスを使っていたことは間違いない。

KGBに現行犯として逮捕された時に着用

 話を元に戻そう。マーサ・ピーターソンは、モスクワの米国大使館でビザ担当官を務めていたという説もあれば、副領事であったという説もある。だが、彼女の正体はCIAの諜報部員だった。そして、ソビエト連邦に送り込まれた最初の女性諜報部員のひとりでもあった。

 マーサの協力者であったソ連の外務省職員アレクサンドル・オゴロドニク、コードネーム「トリゴン」は、2年半もの間、アメリカのために自身のデスクにあったすべての書類を写真に収めていた。

 1977年7月15日、白い服を着たマーサは映画館に入った。非常口に近い列の端の椅子に座ったのち、10分ほど上映中の映画に興味を持つ様子を見せた。その後、彼女はワンピースの上からズボンをはき、黒いジャケットを着て、結っていた髪をほどいてからそっと外へ出た。

 映画館を出た後、マーサはバス、トロリーバス、地下鉄、タクシーなどを乗り継ぎ、敵を撒くために移動を続けた。だが数時間後、モスクワの橋に隠された石(書類の隠し場所で、通称「レターボックス」)で“トリゴン”へのメッセージを残している際に、KGBに現行犯として逮捕された。

 その時彼女は、マイクが付いたハンハルトのクロノグラフウォッチを着用していたのだ。ケースに内蔵されたマイクは、腹部に隠されたレコーダーとワイヤーで繋がっていた。

 マーサは幸運にも逮捕から数時間後に釈放されたが、KBGとCIAは両者の取り決めによって彼女の逮捕を一切公表しなかった。そのため、この出来事が知られるようになったのは、マーサが2012年に『The Widow Spy(未亡人のスパイ)』という本を出版してからである。

CIAのマーサが着用していたハンハルト

 ハンハルトは、“キング・オブ・クール”こと俳優のスティーブ・マックイーンが着用したクロノグラフモデル「417 ES」で成功を収めている。マーサが着けていたようなハンハルトの“スパイモデル”は、50年代から70年代にかけて製造されたもので、当時のドイツ技術の独創性が現れている。

ハンハルトのスパイウォッチ

ケースの9時位置から出ているのは、内臓マイクをレコーダーに接続するためのワイヤー。見た目はバイコンパックスのクロノグラフだが、実際には作動しない。

 マーサが着けていたバイコンパックスのクロノグラフは、直径39mmのステンレススティールケースで、プロトナ製の小さなマイクが内蔵されていた。ケースの9時位置には穴が開けられ、そこから伸びるワイヤーをレコーダーに繋ぐことで、会話を録音できるようになっていた。ワイヤーは服の下に隠れるようになっていたのだ。

 重要なのは、この時計のクロノグラフは作動しなかったということである。マイクを内蔵するため、ケースにはクロノグラフムーブメントを搭載できなかったのだ。よってプッシャーも機能しないわけだが、見た目は本物そっくりに作られていた。ケースバックには自動巻き、17石または21石、耐磁性、耐衝撃性、そして「ドイツ製」と表記されていた。

なお、“スパイモデル”の一部には、文字盤にハンハルトでなく「プロトナ」と記されているものもあった。また、腕時計だけでなく、人形の中にマイクが仕込まれていたことも忘れてはならない。

 さて、“トリゴン”はどうなったか? 彼はマーサが逮捕される3週間前に、すでに捕まっていた。そして尋問中、ペンに隠し持っていたシアン化合物のカプセルで自殺したのだ。

 なお、ハンハルトからこのモデルの復刻の話は出ていない。


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