カルティエ/サントス

FEATUREアイコニックピースの肖像
2020.09.10

リストウォッチの誕生
アールデコに先駆けたカルティエ初の男性用腕時計

サントスのプロトタイプが完成したのは1904年のこと。しばしばアールデコと見なされるそのデザインは、実はその流行より20年以上も先駆けたものだった。ではカルティエは、なぜかくも先進的なデザインを採用できたのだろうか。開発者であるルイ・カルティエにスポットを当てて、サントスの登場と、カルティエの腕時計産業への進出をひもといていきたい。

サントス リストウォッチ

サントス リストウォッチ[1916]
こちらは1916年のモデル。完全に手作りだったため、この時代のカルティエ製腕時計には、さまざまなバリエーションやサイズ違いが存在する。手巻き(ジャガー製Cal.126)。18石。1万8000振動/時。Pt×18KWGケース(縦34.4×横24.7mm)。カルティエ パリ製。
Nick Welsh, Cartier Collection ⓒCartier
サントス リストウォッチ

サントス リストウォッチ[1915]
11915年のサントス。製作は一時期カルティエに所属していたエドモンド・ジャガーである。1907年にカルティエはジャガーとコラボレーションを組み、優れた時計を数多くリリースした。手巻き。18KYG×PGケース(縦34.9×横24.7mm)。カルティエ パリ製。
Nick Welsh, Cartier Collection ⓒCartier

 サントス リストウォッチの生みの親であるルイ・カルティエは、かつてこう語ったといわれる。「私たちは大衆の気分に応じた商品在庫を積み増すよう、ビジネスを行わなければならない。そのためには実用的な機能を持ち、しかしカルティエスタイルで装飾された製品を作らねばならない」

 ハイジュエラーの創業家に生まれたルイ・カルティエは、らしからぬことに市井の人々の嗜好にも関心を抱いていた。そんな彼が、やがて「実用的な機能を持ち、しかしカルティエスタイルで装飾された品々」の開発に取り組んだのは当然だろう。1900年代以降のカルティエは、シガレットケース、18K製のヨーヨー、歯ブラシ、ポーカーセットといった〝実用品〟を製作。カルティエはやがて王侯貴族だけでなく、フォード家、ヴァンダービルド家、ロックフェラー家、モルガン家といった企業家からも支持されるようになるが、その一因は間違いなく、大衆の気分を積極的に取り込もうとする、ルイ・カルティエの柔軟さにあった。

 ではなぜ彼は、ハイジュエリーの作り手らしからぬ視野を持てたのだろうか。その理由は、はっきりとは分からない。しかしハンス・ナーデルホッファーの大著「カルティエ」を読めば、時計という〝実用品〟の影響が少なからずあったことは想像できる。ナーデルホッファーは同著にこう記している。

「この取引の枠(時計の販売量)はカルティエがリュー・ド・ラ・ペに移転して、前年(1898年)から父親を手伝い始めたルイが時計に強い関心を示すようになると、一挙に増大するのであった。彼の時計部門に関する目標は以下の3点である。懐中時計の他に置時計の売買に着手する。カルティエに時計の工房を設立する。彼が、将来性が最もあると見込んだ、時計の可能性を追求する」

アルベルト・サントス-デュモン

サンシールでの飛行試験に臨むアルベルト・サントス-デュモン。搭乗するのは自製の15型飛行機である。撮影は1907年3月。手袋をはめているため見えないが、伝承に従うならば、彼はこの時も腕にサントス リストウォッチを巻いていたはずである。
Cartier Archives ⓒCartier

サントス-デュモンと食事を取るルイ・カルティエ。不自然に高いテーブルは、飛行感覚を養うためと伝えられている。なおサントスがルイ・カルティエに懐中時計の不便さを訴えたのは、パリの名レストラン、マキシム・ド・パリでのことであった。
Cartier Archives ⓒCartier

 ルイ・カルティエが時計に魅せられていたことは、後の行動からも明らかだ。ムーブメント製作者であるモーリス・クーエやエドモンド・ジャガーとの関係はあまりにも有名だが、それ以外にも彼は、さまざまな形で時計製作にコミットし続けた。その中で最も奇妙かつ、彼らしいのが電気時計である。1935年から38年にかけて、彼は400点あまりの電気時計を製作し、ついにはデルヴィカルという専門会社まで設立した。ナチスの機甲師団がポーランドの国境を越えなければ、高精度な電気時計を作るという彼の野心は、あるいは大きな実りを後世にもたらしたかもしれない。モーリス・クーエにミステリークロックを、そしてジャンヌ・トゥーサンに豪奢なハイジュエリーを作らせたルイ・カルティエは、このように、実用品を尊ぶ感覚も備えていたのである。

 彼はまた、デザインに対しても独特の審美眼を持っていた。19世紀後半以降、カルティエがジュエリーで多用したのは、装飾の多い、そして対称的なデザインのガーランド スタイルであった。しかし1906年頃までには、カルティエのデザイナーたちは、ルイの指示のもと、幾何学的なジュエリーも手がけるようになったのである。いつの時代も、カルティエは優れたデザイナーを擁していた。しかし20世紀初頭から1910年代の終わりまで(ナーデルホッファーは1917年頃と指摘している)影響力を振るったのは、デザイナーではなく、創業家出身のルイ・カルティエだったのである。

二代目のアルフレッド・カルティエ(右から二人目)を囲む3人の息子たち。左からピエール・カルティエ、サントスの生みの親であるルイ・カルティエ、そしてジャック・カルティエ。
Cartier Archives ⓒCartier

 ルイ・カルティエの、時計に対する情熱とデザインに対する独特の感覚。これはあるきっかけから、腕時計として結実することになる。ブラジル出身の飛行家、アルベルト・サントス-デュモンとの出会いだ。

 1897年以降、サントスは気球や飛行船を使ってパリ上空をたびたび飛行。1901年10月には、自作の飛行船に乗り、エッフェル塔の周囲を半時間にわたって飛ぶという偉業を成し遂げた。彼の友人のひとりが、ルイ・カルティエである。サントスは彼に対して、(おそらく飛行船の)操作中に懐中時計を見ると両手が使えないと不満を漏らしたようだ。対してルイ・カルティエは、バックルとベルトで腕に時計を留めるアイデアを提案したといわれている。

 もっともルイ・カルティエが腕時計の製作に乗り気になったのは、社交界のトレンドが変わったことも一因だろう。1900年に入って間もなく、貴婦人たちのスタイルはがらりと変化した。長袖のトレンドが下火になり、またイブニングドレスに長い手袋を着ける必要もなくなったのである。その結果、カルティエは女性の手首という〝処女地〟に、新しいビジネスチャンスを見出した。以降カルティエが、宝石入りのブレスレットや、女性用腕時計を発表するようになった理由である。

 ただしカルティエが、1888年の時点で、すでに興味深い腕時計を3種類も製作したという事実は記しておくべきだろう。しかもナーデルホッファーが〝先駆的〟と評したように、このうちのひとつは、すでに鎖型のブレスレットを備えていたのである。これらは腕時計に実用性を盛り込もうとした、極初期の試みと言える。さらにルイ・カルティエは、社交界の著名人だったサントスに腕時計を着けさせようと考えた。ライト兄弟のニュースが伝わるまで、サントスの飛行は世界初の試みとみなされており、彼の知名度は、現在の我々が考えるよりはるかに高かったのである。

販売台帳にサントスが記されたのは、1911年2月16日のこと。カルティエ家の伝承によると、このモデルは1904年モデルに同じだったという。なお1915年の時点で、最も人気があったのはトーチュとサントスであった。
Cartier Archives ⓒCartier

 ルイ・カルティエがサントスのために作った腕時計が、「サントス リストウォッチ」である。カルティエ家の伝承として、1911年の市販第1号モデルが、1904年のプロトタイプと同じだったと伝えられ、これが1904年初出の論拠 となっている。

 ただし、サントス リストウォッチが記録に登場するのは、1906年11月16日のことである。この日、サントスは腕に巻いたリストウォッチで自らの滞空時間をカウントした。そしてカルティエはこの年にプラチナケースを持つ、女性向けの腕時計(その形状はトノーに酷似していた)を市販したのである。あくまで筆者の想像だが、カルティエが腕時計を本格的に作るようになったのは、1906年からだろう。ナーデルホッファーも、やはりカルティエの腕時計に関する年表を1904年ではなく、1906年から始めている。

 1911年にサントスは、自分のために作られた腕時計を商業用として販売することに同意。同年2月16日には、カルティエの販売台帳に、市販型のサントス リストウォッチが記録されることとなった。なおサントス リストウォッチのデザインを手がけたのは、当時所属していた8人のデザイナーのうちの誰かであったはずだ。しかしジュエリー同様、監修者はあくまで企画者ルイ・カルティエであった。以下、推測を交えて語ってみたい。

サントス‐デュモン スケルトン ウォッチ

サントス‐デュモン スケルトン ウォッチ
右モデルの素材違い。合理性から生まれたサントスのデザインは、アールデコと本質を同じくするも、それをはるかに先取りしていた。今のカルティエが、アールデコ風のスケルトン加工を与えたのには納得がいく。手巻き(Cal.9611MC)。基本スペックは右に同じ。18KWG。615万円。
Vincent Wulveryck ⓒCartier 2010
サントス‐デュモン スケルトン ウォッチ

サントス‐デュモン スケルトン ウォッチ
ムーブメントをスケルトナイズした「サントス-デュモン」。サントスのデザインはアールデコより前だが、アールデコ風の処理は見事に合う。手巻き(Cal.9614MC)。20石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約72時間。18KPG(縦47.4×横38.7mm)。日常生活防水。570万円。
Photo 2000 ⓒCartier 2011

 ガーランド スタイルで成功を収めて以降、カルティエはジュエリーデザインでさまざまな試みを行った。ロシア風、インド風、中国風、日本風などなど。カルティエはアールヌーヴォーに対しては冷淡な態度をとり続けたが、それ以外のスタイルは貪欲に吸収した。もっともそれが製品に反映されるまでには時間がかかったようで(主な顧客である王侯貴族は保守的だった)、むしろカルティエはこういう新しいスタイルを、まずは「実用的な機能を持つが、しかしカルティエ スタイルで装飾された品々」に投じた。その最も優れたサンプルが腕時計ではなかったか? 筆者の推測だが、ルイ・カルティエは、自らが取り組んでいた新しい分野に、名声を得たジュエリーとは異なる試みをしたかったのだろう。

 ジュエリーの世界で、後にカルティエはアールデコのトレンドをリードすることになるし、しばしばサントス自体が、その先駆けと見なされることがある。しかしアールデコを牽引したデザイナーのシャルル・ジャコーがカルティエに入社するのは1909年であり、彼がロシア風のデザインや幾何学模様に魅せられ、それを新しいスタイルに昇華させるのは1910年代以降だ。つまり1904年発表のサントス リストウォッチは、アールデコとは無関係だったのである。

 アールデコがひとつのデザイン様式として認識されたのは、サントスの登場から20年も後のことだ。反面、アールデコとみなして差し支えないほど、サントスのデザインは時代に先駆けていた。それを示すのがストラップとラグである。19世紀に作られた腕時計は、それが男性用か女性用かを問わず、細いストラップを持っていた。しかしサントスを含むカルティエの腕時計は、1906年の時点で、すでに太いストラップを備えていたのである。そしてサントスに限っていうと、太いストラップを支えるべく、ラグは現行品並みに太くされた。この時計が飛行家の腕に巻かれることを理解したカルティエは、サントスに対して、目的に合ったデザインを与えたわけだ。

 サントスが持っていた合理性とは、奇しくもアールデコの重要な要素であり、そして腕時計のデザインには不可欠な要素でもあった。少なくともサントスは、時計付きブレスレットを脱した、そして明確な目的を持って作られた初の腕時計だったと言えるだろう。

 このサントスのデザインは、後のカルティエにも決定的な影響を与えた。1914年にルイ・カルティエは、サントスをベースに、新しい時計のデザインを作り上げた。これはサントスのケース側面を直線状に裁ち落とし、ラグと一体化させたものであった。2年後、カルティエはこの時計の意匠をさらにリファインし、市販に踏み切ることになる。これが名作「タンク」となるのである。