米国とイスラエルによるイランの共同攻撃、ホルムズ海峡の封鎖をはじめとした、イランによる報復、こういった中東の情勢不安によって深刻化するインフレ……。混乱する世界情勢の中にあっても底堅さを見せているのが、高級時計市場だ。一方で、長らくスイス時計の輸出先として第2位につけていた中国の景気悪化が著しく、現在首位となっている米国経済が冷え込めば、高級時計市場全体への大きな影響は免れられない。そんな2026年、高級時計市場の向かう先とは? 気鋭の経済ジャーナリスト、磯山友幸氏が分析する。

経済ジャーナリスト/千葉商科大学教授。1962年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。日本経済新聞社で証券部記者、同部次長、チューリヒ支局長、フランクフルト支局長、『日経ビジネス』副編集長・編集委員などを務め、2011年に退社、独立。政官財を幅広く取材している。著書に『国際会計基準戦争 完結編』『ブランド王国スイスの秘密』(いずれも日経BP社)など。
【磯山友幸 公式ウェブサイト】http://www.isoyamatomoyuki.com/
Text by Tomoyuki Isoyama
安堂ミキオ:イラスト
Illustration by Mikio Ando
[クロノス日本版 2026年5月号掲載記事]
戦時の資金逃避は高級時計にも向かう
2026年2月28日、米国とイスラエルがイランに攻撃を開始し、最高指導者のアリ・ハメネイ師ら政権幹部を殺害した。イランは報復として米軍基地などを持つ周辺国を爆撃し、戦争状態に突入。米国が短期に収束するとしていた戦争は長期化の様相を見せている。また、イランがホルムズ海峡の封鎖を宣言したことから、世界経済への影響が顕在化している。中でも、9割の原油を中東に依存し、その9割をホルムズ海峡経由に頼っている日本は、国内でガソリン価格が上昇するだけでなく、原油から作られる石油化学製品の品不足などが懸念されている。世界経済に激震が走っている。
3月18日にはイスラエルがイラン南西部の天然ガス関連施設を攻撃、その報復としてイランがカタールの天然ガス関連施設を攻撃したことから、原油価格は再び高騰、指標となるWTIの先物価格が1バレル=100米ドルを突破した。中東産原油の供給が止まったことで原油価格はさらに上昇すると見込まれており、世界的にインフレが再燃することがほぼ確実視されている。世界経済は緩やかながらも成長を維持すると見られてきたが、イラン戦争によって先行きに暗雲が立ち込めている。
二極化する消費者
再び世界でインフレ圧力が強まる中で、高級宝飾品の市場はどうなるのか。世界経済が減速して消費全体は落ち込む懸念が強まる一方で、時計を含む高級品への需要は底堅い。スイス時計協会FHの統計によるとスイス時計の2025年の年間輸出額は255億5240万スイスフラン(5兆1164億円)と前の年に比べて1.7%減少、2年連続のマイナスとなったが、2026年1月と2月の累計では前年同期間比2.8%のプラスに転じるなど、回復する兆しを見せた。
消費者自身が二極化して、富裕層と低所得者層に分かれ、富裕層は株式や不動産、貴金属などの価格上昇の恩恵を受ける「資産効果」から、高級品消費を増やしている。一方、庶民は生活物資の価格上昇に苦しめられ、消費を抑えざるを得なくなっている。
高級時計が資産逃避先に?
今回のイラン戦争によって株価や外国為替、金相場などは大きく乱高下している。リスクの低いものに資金を移そうという動きが広がっていると見ていいだろう。かつては「有事のドル買い」と言われたり、日本円が逃避通貨として注目されたりしたが、米国が当事者となる中で強い米ドルが維持できるか疑問視されているほか、インフレによる通貨価値の劣化も懸念されている。
円に至っては、原油価格の上昇で経済成長の足を引っ張るとの見方のほか、ガソリン価格を抑えるために政府が多額の補助金を支出することで政府財政が一層悪化するとの見方から、円安がさらに続くと見られている。インフレは通貨の価値が下落してモノの価格が上がることなので、預金や債券の価値は目減りし、逃避対象にはならない。つまり、円通貨を持ち続けると目減りしてしまうので、別の資産に移そうという動きが強まるわけだ。
通貨価値が劣化すれば、株式や不動産、貴金属、宝石といったモノの価格は上昇するので、こうした資産へと資金逃避が起きる。そんな流れの中で、高級時計も資産逃避先のひとつとして再び富裕層に注目される可能性が強まっている。
スイス時計輸出額の世界トップは米国
前述の通り、スイス時計輸出額は1-2月の累計で前年同期間比2.8%増えたが、依然として輸出額で世界トップは米国で、前年同期間比の伸び率も5.3%と大きい。次いで輸出額2位には日本が入った。引き続き香港や中国本土向けの輸出減が続いており、香港は3位、中国に至っては5位に後退した。米国に次いでスイス時計の一大需要地だった中国本土の凋落ぶりが著しい。中国国内の景気減速は深刻で、高級品需要が一気に萎んでいる様子が伝わってくる。
富裕層の資金逃避先として高級時計が伸びるにしても、世界最大の需要地である米国の消費が大きく陰ることになれば、話は違ってくる。今のところ中東の戦争が米国経済には直接的な影響は与えていないが、今後の消費の動向には注目しておく必要がある。



