ここ10年で大きく成熟した高級時計市場。牽引の担い手となったのは、2015年頃から始まったラグジュアリースポーツウォッチの一大ブームだった。質的な拡大を経て、いま目利きの時計愛好家たちは、ファッション性よりも未来に残る時計に関心をシフトさせている。ではどんな時計が未来の時計遺産たり得るのか? 著名なジャーナリストによる特別寄稿と、識者たちへの聞き取りで、過去と未来を繋ぐマスターピースの条件を浮き彫りにする。
Photographs by Masanori Yoshie, Yu Mitamura
スー・ジャーシャン:文
Text by Su Jiaxian
Edited by Yuto Hosoda (Chronos-Japan), Hiroyuki Suzuki
[クロノス日本版 2024年9月号掲載記事]
ブレゲのシンパティック・クロックからF.P. ジュルヌの腕時計まで……SJXの「未来に残る時計たち」
それ自体は時計というよりも、むしろペアウォッチを収めたクロックと言える、オルレアン公爵が所有していたブレゲ「パンデュール・サンパティーク」が、2012年にサザビーズのオークションで680万2500ドル(当時のレートで約5億6000万円)の価格で落札された。オークション史上最高額は、このクロックにふさわしい価格だ。

時計サイト『watchesbysjx.com』の創設者。1985年、シンガポールに生まれる。12歳で時計に興味を持ち、ウェブサイトなどに寄稿。2011年に自身のサイトを立ち上げ、数年にして世界中の時計愛好家から支持を集める。30代ながら、現在最も影響力のある時計ジャーナリストのひとりだ。
オルモル装飾に赤いべっ甲のパネルが施されたこのパンデュール・サンパティークは、おそらくブレゲの有名なクロックの中で最も精巧な装飾が施されたモデルであろう。さらに重要なのは、このクロックが懐中時計を巻き上げ、時刻を合わせ、調整を行うという、最も洗練されたタイプのサンパティークとして知られている唯一の例であるということだ。そのため着用者は、就寝前に時計をクロックに置き、翌朝時計を取り出すだけでよく、巻き上げ、時刻を合わせ、調整する必要がないのである。
アブラアン-ルイ・ブレゲによって1795年ごろに考案されたパンデュール・サンパティーク(シンパティック・クロック)は、電子機器よりも2世紀ほど前に誕生したが、その基本コンセプトは、現代においても最も洗練された技術を要する同期と情報伝達を反映したものだ。パンデュール・サンパティークは約56台製造されたが、現在知られているのは12台のみで、〝オルレアン公爵〞が最も複雑であると知られている。

高精度な置き時計を母艦とし、携帯用の懐中時計を同期させることで、自動で時刻を合わせるパンデュール・サンパティーク(シンパティック・クロック)。アブラアン-ルイ・ブレゲが作った、最も複雑な時計のひとつだ。写真はスイス・チューリッヒの老舗宝飾時計店、ベイヤーが所有するNo.666で、マザークロックにはルモントワールが備わる。
しかし、〝よりシンプルな〞バージョンでさえも非常に複雑で、それぞれが製作に数十年の歳月を要している。この注目すべき時計はブレゲの死後、1836年にオルレアン公爵に売却されたが、その製作はブレゲがまだ存命で工房を監督していた1790年代半ばに始まったと考えられている。
この特別なパンデュール・サンパティークは、その機械的創意工夫のみならず、1970年代にパリのアンティークショップでムーブメントの部品が多数欠落した状態で発見された後、ジョージ・ダニエルズによって大幅に修復され、復元されたという事実により、さらに存在が際立っている。
自身が著した『The Art of Breguet』の中で、ダニエルズはパンデュール・サンパティークについて次のように述べている。
「科学的時計学の努力の森の中で、場違いな創造力に満ちた宝石であり、その存在そのものに驚きと謎は尽きず、製造するに十分な理由がある」
さらに、フランソワ-ポール・ジュルヌとミシェル・パルミジャーニの両氏は、私との会話の中で、パンデュール・サンパティークが「人類史上最も独創的な時計学的発明」であると明言した。現代の時計業界において最も尊敬されている3人がパンデュール・サンパティークのステータスについて同意しているのだから、この時計が保存されるべきものであることは間違いない。
この40年ほどの間は、クォーツ革命後の時代であり、機械式時計製造が計器を作る手段としてではなく、芸術、工芸、デザイン、あるいは単なる商業的動機の表現として復活した。
その結果、多くの時計が考案されたように見えるが、重要な時計はほんのひと握りであることはほぼ間違いない。重要な時計とは、後に続くウォッチメーカーたちに影響を与え、また大きな影響を与えるウォッチメーカーたち自身も同様に重要な時計と見なしている時計を意味している。
そこでは、インディペンデントウォッチメーカーが重要なタイムピースの多くを占めており、これはウォッチメーカーが企業組織の枠から自由になったときの創意工夫と解き放たれた独創性を示している。
ジョージ・ダニエルズの懐中時計、「ザ スペース トラベラー」は、明らかに多くの時計愛好家やウォッチメーカーが崇拝する時計である。ダニエルズがすべて手作業で製作したこの時計には、彼が開発したダブルホイール脱進機が組み込まれており、ふたつの輪列によって、真太陽時と平均太陽時の時間表示が個別にできる。さらにダニエルズは、この時計の便利さを倍増させるため、クロノグラフ機構を追加した。
ダブルホイール脱進機により、平均太陽時と真太陽時をそれぞれ別表示し、さらに均時差を知らせる懐中時計。また、クロノグラフとムーンフェイズ、年次カレンダーも併載される。ジョージ・ダニエルズが全てのパーツを手作りしたことで特に評価が高く、2017年のサザビーズによるオークションでは319万6250ポンド(当時のレートで約4億6000万円)で落札された。
腕時計の中ですぐに思い浮かぶのは、F.P.ジュルヌの「クロノメーター・レゾナンス」である。その前後の多くの偉大な作品と同様、クロノメーター・レゾナンスも歴史的な偉人、すなわちブレゲとアンティド・ジャンヴィエの作品に着想を得た(インスパイアされた)ものだ。彼らはともに共鳴の原理で動作するタイムピースを製作し、レゾナンスクロックを作り上げたが、ブレゲのみがレゾナンスの懐中時計を組み立てた。

ふたつのテンプを共振させることで、等時性を高めるクロノメーター・レゾナンスの第5世代。1秒ルモントワールを搭載することも含め、基本的なメカニズムは先代と変わらないが、香箱がシングルに改められている。また、2時位置と4時位置の2カ所にリュウズを設けるなど、より対称性を強調したデザインが採用された。
しかしながら、フランソワ-ポール・ジュルヌは、現代において初めてレゾナンスを腕時計で実現した。スリムでコンパクトなケース、シンメトリーなムーブメントと文字盤を備えた、他の追随を許さない彼のスタイルで成し遂げられたクロノメーター・レゾナンスは、ブレゲのレゾナンスに着想を得ながらも、オリジナルであるとすぐに分かる異彩を放つ美を備えている。
クロノメーター・レゾナンス以外にも、ジュルヌはもうひとつ、偉大な発明をしている。それはアメリカの映画監督フランシス・フォード・コッポラの提案によって考案された「FFC」である。人の手の5本の指で時刻を示す、おそらく史上唯一のタイムピースであるFFCは、コッポラの前代未聞のアイデアに挑み、それを実際に実現したジュルヌの天才的な革新性と専門的熟練を示している。ジュルヌはほぼ間違いなく、クロノメーター・レゾナンスやFFCのような時計が示しているように、ひとりのウォッチメーカーとしてその生涯で稀有な偉業を成し遂げた。

2021年開催のオンリーウォッチに出品された「FFC ブルー」の量産モデル。映画監督フランシス・フォード・コッポラの発案による、「5本の指を使って時刻を表示する」というアイデアをオートマタによって具現化したものだ。彫金で仕上げられた腕のモチーフは16世紀の外科医、アンブロワーズ・パレが発明した義手をモチーフにしている。
まだ偉業を成し遂げていないが、私がそうなることを期待しているウォッチメーカーがレジェップ・レジェピである。だからこそ、「レジェップ・レジェピ クロノメトルコンテンポランⅡ」は、いつか意義深い時計として浮上するだろう。3針の時計ではあるが、デッドビートセコンド付きで、ムーブメント、文字盤、ケースのいずれにおいても、レジェピのクラシカルな美学が存分に表現された画期的な作品である。
では、主流ブランドはどうだろう? パテック フィリップの「キャリバー89」は、ここに挙げる価値がある。1989年に創業150周年記念として発表されたキャリバー89は、当時世界で最も複雑な時計であり、ヴァシュロン・コンスタンタンが「リファレンス 57260」を公表する2015年まで、四半世紀にわたってその記録を保持していた。
しかし、キャリバー89がより重要とされるのは、それが発表された時期も大きい。当時は機械式高級時計が流行し始めた時期ではあったが、まだ本格的に世に知られているわけではなかった。また、コンピューターは存在していたが、決して主流ではなかった時代でもある。そのため、高級機械式時計製造の未来に対するブランドの信念を示すと同時に、デジタル機器を使わずに手作業で多くのことが行われていた時計製造の歴史を代表する存在なのだ。
もうひとつ候補を挙げたい。A.ランゲ&ゾーネの「ダトグラフ」だ。1999年に発表されたこのモデルは、一瞬にして最も美しいモダンクロノグラフとなり、そう称された。デビューから25年経った今でも、そう考えている人もいる。
A.ランゲ&ゾーネは、F.P. ジュルヌやジョージ・ダニエルズに匹敵するステータスを獲得していないにもかかわらず、例えば、ダトグラフはウォッチメーカーたちから広く称賛される時計であり続けている。インディペンデントウォッチメーカーの中には、クロノグラフをデザインする際の創造性を刺激するものとしてこの時計を支持する人さえいる。




