【未来に残る時計たち】A.ランゲ&ゾーネにオメガ……傑作ムーブメントから見るマスターピースの条件

2025.12.01

ここ10年で大きく成熟した高級時計市場。牽引の担い手となったのは、2015年頃から始まったラグジュアリースポーツウォッチの一大ブームだった。質的な拡大を経て、いま目利きの時計愛好家たちは、ファッション性よりも未来に残る時計に関心をシフトさせている。ではどんな時計が未来の時計遺産たり得るのか? 著名なジャーナリストによる特別寄稿と、識者たちへの聞き取りで、過去と未来を繋ぐマスターピースの条件を浮き彫りにする。

【未来に残る時計たち】マスターピースの条件をパルミジャーニ・フルリエからひもとく[ディテール編]

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吉江正倫:写真
Photographs by Masanori Yoshie
広田雅将(本誌):文
Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
Edited by Yuto Hosoda (Chronos-Japan), Hiroyuki Suzuki
[クロノス日本版 2024年9月号掲載記事]


未来に残る傑作ムーブメント

 30年前と今の違いは、傑作時計の条件にムーブメントが入るようになったことだ。かつて傑作と呼ばれる時計の条件は、せいぜいデザインとブランド、そしてユニークさぐらいだった。しかし製造技術の進化はムーブメントを表舞台に引っ張り出したのである。ここで挙げる傑作に共通するのは、機能美というよりも造形美だ。


工作機械の進化がもたらした審美性というムーブメント評価軸

 ある程度目の肥えた時計好きであれば、ムーブメントは必ず、傑作の条件となるはずだ。デザインほど大きな価値を持たないが、ムーブメントは機械式時計を選ぶ大きな条件となった。

 もっとも、ムーブメントが注目を集めるようになったのは、ごく最近のことである。1990年代後半に入るまで、量産されるムーブメントは、基本的にプレスで打ち抜いた部品で構成されていた。こういった部品は、丈夫で生産性も高かったが、審美的とは言いがたい。例えば、1973年に発表された自動巻きクロノグラフムーブメントのバルジュー(現ETA)7750。これはプレスを駆使することで、高価と見なされていた自動巻きクロノグラフを普及させた立て役者である。機械式時計がひとつのムーブになった後、多くのメーカーがETA7750を使ってさまざまな時計を作った。しかし、これがトランスパレントバックを持てなかったのは、その造形が、あまりにも工業的だったためだ。ETA7750を見せて成功したのは、驚くほどの手を加えたIWCの複雑時計と、スケルトンを打ち出したクロノスイスぐらいではなかったか。

 転機が訪れたのは1999年のことである。A.ランゲ&ゾーネは、金型製造に用いられていたワイヤ放電加工機を転用することで、クロノグラフの部品を審美的に加工するようになったのだ。そこで生まれた「ダトグラフ」のCal.L951は、重層的な部品配置と、大きく湾曲したレバー類を持つ、極めて審美的なムーブメントとなった。

 以降のムーブメントは、例外なくダトグラフの在り方を踏襲したもの、といって良い。つまりプレスではなく、ワイヤ放電加工機やCNC旋盤を使うことで、機械式ムーブメントは、かつて考えられなかった可能性を持てるようになったのである。もちろん精密な部品は、機械式時計に驚くほどの機能を載せる理由となった。しかしいっそう重要なのは、技術革新によって、腕時計のムーブメント部品は、手作業で作られていた時代を超える精密さと造形を持てるようになったことだった。これは自社製ムーブメントの高騰というデメリットももたらしたが、そのメリットはマイナス要素を補ってあまりあるものだった。

リシャール・ミル Cal.RM27-05

リシャール・ミル Cal.RM27-05
機械式ムーブメントの在り方を大きく変えたのが、ワイヤ放電加工機と切削の普及だった。カーボンを用いることで、超軽量なムーブメントとなったCal.RM27-05は、今を代表するムーブメントと言える。時計全体の重さはたった11.5gしかない。その一方で、リシャール・ミルは高級時計に不可欠な面取りなどを、手作業で施している。

 そういった最新の傑作をいくつか挙げたい。リシャール・ミルのCal.RM27-05は、「ナダル」の最新作が搭載するムーブメントである。地板にカーボンを使い、極端に軽量化されたこのムーブメントは、その一方で、審美性を決して忘れてはいない。新素材と手作業の融合は最新のムーブメントに見られる特徴であり、リシャール・ミルはこのジャンルの先駆者である。

 F.P. ジュルヌのトゥールビヨン・スヴランが載せるCal.1510も、垂直トゥールビヨンというユニークな機構を腕時計のサイズに収めた例である。加えてジュルヌは、かつての一部高級時計に見られたゴールド製の地板と受けを、量産機としては初めて、大々的に採用している。このふたつは機能と造形を両立させた、現行ムーブメントの最右翼だろう。

F.P.ジュルヌ Cal.1519

F.P.ジュルヌ Cal.1519
F.P.ジュルヌの傑作であるトゥールビヨン・スヴランの後継機。トゥールビヨンキャリッジを文字盤に対して垂直に改めているが、テンプの慣性モーメントは既存モデルに同じ11mg・cm2。垂直に置いたにもかかわらず、ケース厚は13.6mmに抑えられた。また1秒ルモントワール搭載により、駆動時間のほぼ全域にわたり、260°の振り角を安定して維持する。

 精密な加工を手作業で仕上げる、というアプローチを磨き上げたのはモリッツ・グロスマンである。同社は針や一部のムーブメント部品をワイヤ放電加工機でくりぬくことにより、懐中時計の時代に見られた繊細なディテールを今によみがえらせた。かつて手作業だけでしか実現できなかった要素は、今や当たり前のものとなったのだ。

モリッツ・グロスマン Cal.100.1

モリッツ・グロスマン Cal.100.1
加工設備や人員の制約によりできなかったことを、すべて盛り込んだCal.100系の「完成系」。ベヌーでは実現できなかった精密な部品製造を、ワイヤ放電加工機の採用でクリアした。興味深いのは調整済みの緩急針の位置。緩急針が真ん中にある状態で精度を出すべく、自社製の精密なテンワに置き換えられた。

 前述の通り、こういった試みの先駆けはダトグラフのCal.L951だ。永久カレンダーのレバー類などを作るために使われていたワイヤ放電加工機を、審美的な部品の製造に転用したCal.L951は、これまで実現できなかった造形美を持つようになった。かつて曲がりくねった細い部品は糸鋸で切り出すしかなかったが、これ以降、コストさえかければ容易に入手できるようになったのである。その完成度は発表から四半世紀経つ今なお圧倒的だ。

A.ランゲ&ゾーネ Cal.L951.6

A.ランゲ&ゾーネ Cal.L951.6
傑作ムーブメントの現行版。1999年のCal.L951.1より駆動時間が大幅に延びたうえ、パワーリザーブインジケーターが追加された。また緩急装置がフリースプラングに変更され、クロノグラフのリセットがダイレクトから、摩耗しにくいインダイレクト式に改められた。ヒゲゼンマイも自社製である。しかし、その造形美は不変だ。

 機能と造形を高度に融合させた試みとしては、ジェイコブ「アストロノミア」がある。トゥールビヨンを含む重い回転体を精密に回すために必要なのは、いうまでもなく精密な部品である。加えて、ジェイコブは重い貴石をも回すことで、その独創性をいっそう誇張した。ちなみにアストロノミアのプロトタイプは、完全に手作業で作られていた。しかし現在は、最新の工作機械を持つムーブメントメーカーのコンセプトがその製造を担っている。機械が手作業を置き換えるひとつの例だろう。

ジェイコブ Cal.JCAM11

ジェイコブ Cal.JCAM11
20分で1周する中心軸で、6つの機構を動かすムーブメント。時分、秒、3軸のトゥールビヨン、そしてイエローサファイア製のムーンが同時に回る。重い部品を回すには、主ゼンマイのトルク管理を適切にするほか、部品の片重りを完璧に取る必要がある。重い構造体を回す点で言えば、これに勝るムーブメントはないだろう。

 こういった新しいムーブメントの出現は、必然的に、かつての優れたムーブメントにも目を向けさせることになった。その頂点に位置するのは、オーデマ ピゲの2120系(ヴァシュロン・コンスタンタンの1120系)と、レマニアの2310系だろう。後者は基本設計を1942年にさかのぼる機能的な量産機だが、その機能美は造形に傾きがちな最新のムーブメントとは一線を画している。とりわけヴァシュロン・コンスタンタンの採用するCal.1142は、フリースプラングテンプを持つ、いわばレマニア2310系の最終形だ。 見た目という文脈の中で注目を集めるようになったムーブメント。こういった流れは、今後ますます強まっていくに違いない。

オメガ Cal.321B

オメガ Cal.321B
再びよみがえった伝説的なムーブメント。見た目こそかつてのCal.321に同じだが、部品の製造はプレスから切削へと置き換えられている。理由は生産性よりも審美性を重視したためだろう。また、古典的なチラネジ付きのテンプも新造された。基本的な設計はほぼ同じだが、パワーリザーブは約60時間に延長されている。
ヴァシュロン・コンスタンタン Cal.1142

ヴァシュロン・コンスタンタン Cal.1142
1942年に発表されたレマニア2310系。オメガを除いて、唯一現存するのがヴァシュロン・コンスタンタンのCal.1142だ。当時の部品はすべてプレスで製造されていたが、現在は基本的に切削である。高級機らしくすべての部品には深い面取りが与えられるほか、緩急針が省かれ、ショックに強いフリースプラングに置き換えられた。


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