1881年の創業以来、セイコーは日本初の腕時計を、そして世界初のクォーツ腕時計を世に送り出してきた。しかし2026年7月3日に披露された「Seiko Star Time」は、同社が作ってきたあらゆる時計と性格を異にするものだ。市販の予定はなく、大谷翔平選手のためだけに作られた1本の時計。しかも搭載されたのは、100万時間──およそ114年を積算表示するという、時計史上前例のない機構だった。

Photographs & Text by Masayuki Hirota
[2026年8月XX日公開記事]
前人未到のプロジェクト始動。しかし……「モノにならないんじゃないか」
セイコー自身が「1881年の創業以来、培ってきた歴史の誇りにかけて挑んだ、前人未踏のプロジェクト」と表現したのが、2026年7月3日に発表された「Seiko Star Time」である。回転ディスクで時刻や天体を示す時計は過去にも存在した。しかし約114年という単位を可視化した腕時計は、筆者の知る限り、これ以外に存在しない。

大谷翔平選手の「野球選手として、後どれぐらいの時間を積み重ねられるだろう」という思いを具現化したスーパーコンプリケーション。5枚のディスクによって24時間、1000時間、1万時間、10万時間、100万時間の積算時間を表示する。自動巻き。ブライトチタンケース(直径41.8mm、厚さ17.4mm)。10気圧防水。非売品。
しかも本作において、積算表示は主役なのである。デザイン担当の檜林勇吾(ひばやし ゆうご)氏は言う。「通常、時計をデザインするときには、積算表示はあくまで付属の要素です。それが一番メインの機能となるというところが、すごく面白いと驚きましたよ」。
開発陣を構成する精鋭たちの反応は、「面白い」とはほど遠いものだった。プロジェクトメンバーである内山博紀氏は「正直、モノにならないんじゃないかな、と思った」と漏らす。ムーブメント設計を担当した河田正幸氏も「我々が想像したこともなかった機構でした。本当にディスクで時間を表示することが可能なのか」と振り返る。外装設計の橋本涼氏に至っては、「構造も全く新しいものになることを設計者として直感したので、難しい仕事になると覚悟をしました」と語った。
プロジェクトが動き出したのは2023年のこと。セイコーは2016年からロサンゼルス・ドジャース所属の大谷翔平選手をアンバサダーに迎え、2026年からはグローバルアンバサダーとして起用してきた。その長い対話のなかで、大谷選手が発したひとつの言葉が、すべての出発点になった。「野球選手として、あとどれくらいの時間を積み重ねられるだろう」。
大谷選手本人はこう説明する。「(プロジェクトの始動はロサンジェルス・ドジャーズとの)新しい契約が始まるタイミングでした。長期の契約だったので、僕の(野球選手としての、キャリアの)最後になるかもしれません。小さい頃に始め、やり続けてきたものが終わる……。キャリアのラストにあたり、どれくらい積み重ねてきて、あとどれくらいできるのかなというのを、何か身に着けて頑張れるひとつのもので形にしたいな、と感じました」。
この問いを受け止めたのが、セイコーウオッチ代表取締役会長 兼 CEO 兼 CCOの服部真二氏である。Seiko Star Timeの発表会で服部氏はこう述べた。「大谷選手は常に時間と向き合いながら、その一瞬一瞬を積み重ねてきた。セイコーとして何ができるかを考え続けてきました。そのひとつの答えとして生まれたのが、今回のモデルです」。
大谷選手との10年の関わりを記念するイベントで、ゲストとして登壇した北海道日本ハムファイターズ チーフ・ベースボール・オフィサー(CBO)の栗山英樹氏が行った証言でも、Seiko Star Timeが生まれた背景を示す。「時間、時は(大谷選手が)成功する大きな要素だったと思いますよ。彼が成功したのは、自分の24時間をうまくマネジメントできたからではないでしょうか」。栗山氏によると、大谷選手の口癖は「今じゃないんです」だったという。未来から逆算して現在を考える人物にとって、積み上がる時間を可視化する装置は、単なる記念品ではなく、人生に不可欠なものだったのだろう。
各部門の精鋭が集まった

プロジェクトはまず、開発デザインチームによるディスカッションから始まった。大谷選手が時をどう捉え、どのように日々を積み重ねてきたのか? その解釈を突き合わせたうえで、100万時間をどう表現するかというアイデアが複数展開された。提示された3案のうち、大谷選手が選んだのが「Seiko Star Time」のデザインだった。檜林氏は言う。「北極星は位置を変えることなく、その周りを星が回り続けています。そんな北極星のような、ぶれない目標を定め、それに向かって突き進むという大谷さんの考え方と、星の軌跡を思わせる5枚のディスクで時間を表示する仕組みに、親和性があるのではないかと思いましたね」。
同時にそれは、3案のなかで最も難易度が高いものでもあった。「すべてを円盤針で表すという、一番難しいものを提案しました。多分、設計者泣かせだったと思います」(檜林氏)。
実際、5枚のディスクによる時間表示というアイデアは、誰も取り組んだことのないものだった。橋本氏はこう述懐する。「新要素、新構造、新しい組み立て方、新しい分解の仕方。ほぼすべての部品に新規要素が必要なことが分かりました。たくさん壁がそびえているようなもので、ひとつ登るとまたその先にまた壁がある」。
技術的なハードルを具体的に見ていこう。一般的な時計で針の代わりとなる5枚の円盤は、ケースいっぱいまで広がっている。通常、これほど大きなディスクを回す場合は外周にベアリングを入れて平滑性を確保するが、本作は中心のみで支持する。河田氏は言う。「中心部分が積み重なっている構造なので、全ての重量が中心の軸にかかってきてしまう。側圧のストレスで時計が止まってしまうといった、構造的な欠陥が出てきかねない」。残念ながら時期が来るまで詳細を書くことができないのだが、サイドからアクセスしやすく、分解しやすい設計とした。「1000時間車までは軸にかかる側圧が高いのです。そのため、ディスクを支える受けをふたつに分けました」(河田氏)。
組み付けを託されたのは、工藤幸枝(くどう さちえ)氏である。もっとも、ディスクを正確に据え付けるため、最後の組み付けは4名が2回にわたって目視で確認しながら行われたという。面白いのは、このスーパーコンプリケーションがセイコーの他の時計に同じく落下試験をクリアしたことだ。ユニークピースではあるが、あの大谷選手が日常的に着用する時計なのだ。ショックに強いというのは当然だろう。しかしディスク同士の隙間がたった190ミクロンしかない本作に、普通の時計並みの耐衝撃性を与えるという要求は、次元が異なる。
表示を担う歯車にも、極端な精密さが求められた。このモデルの一番外周にあるディスクは、100万時間で1回転する。そのため歯車にはMEMSが用いられていると河田氏は語っており、数ミクロン以内という精度で仕上げられた。もっとも、歯車のバックラッシュを詰めるには、24時間表示のディスクを87回転させて遊びを収束させる必要があるとのこと。ディスクの素材も異例だ。「通常であれば、あまり針に使わない素材を用いました」(橋本氏)とのこと。より具体的に言うと、文字盤の部品として使われている素材を回しているという。アルミなどの軽い素材を選ばなかったのは、表面にセイコーの得意とするラッカー仕上げを施すためである。そのうえで素材をギリギリまで薄くすることで、時計の厚みを大きく減らした。



外装も新規である。5枚のディスクと積算機構を収めたムーブメントは、通常より遥かに厚い。それでも時計自体を厚くしたくないという要求に対し、外装設計の橋本氏はガラスとムーブメントがほぼ同じ高さになる新構造を考案した。ただし本人は、これがケース設計単独の成果ではないと強調する。「ケース設計者だけでは成立しないものが多かったです。そのため時には針の設計担当だったり、ムーブメントの設計担当だったりと協業しながら、ムーブメントの形を変えてもらうこと等で実現した仕様もあります」。結果、本作のケースは直径41.8mm、厚さ17.4mmに収まった。そして装着感の検討には3Dプリンターが用いられ、大谷選手の手首に合わせた厳密なサイズが詰められた。ストラップも彼の手首回りに合わせた特注品である。



ベースムーブメントについてセイコーは公表していないが、シースルーバックからのぞくのは、グランドセイコー「エボリューション9 コレクション」等に搭載されるCal.9SA5だろう。同社がグランドセイコーの基幹ムーブメントを他のコレクションに供することは、まずない。この一点だけでも、本プロジェクトの位置付けが分かるだろう。


採算という言葉のない現場
橋本氏は、開発の過程をこう総括した。「目標デザインのすべてを実現するべく、外装の設計、技術担当をはじめ、すべてのメンバーが一丸となって、最高の創意工夫を凝らしました」。
注目すべきは、この時計が非売品であり、市販される予定が一切ないという事実である。開発費を回収する手段は存在しない。にもかかわらず、開発チームは「できません」という選択肢を持たなかった。ブレないビジョンを掲げ、コストを度外視して、大谷選手の希望をそのまま時計に落とし込んだのである。
その象徴が、5枚のディスクを合わせるために開発された専用工具、通称「円盤針早回し装置」だ。たった1本の時計のために、上面にジュネーブ仕上げまで施された機械を新規に起こす。しかもそれは、この先の時計師が使うことを前提としたものである。採算という言葉が、この現場には存在しなかった。

檜林氏は言う。「北極星のような、動かないビジョンをちゃんと作った。それに向けて各部門の精鋭がチャレンジしてくれたことで、本当に難しいモデルが完成したのではないかと思っています」。
Seiko Star Timeの贈呈の場で、服部氏は率直だった。「こういう腕時計を作ったことはなかったですし、想像もできなかった。我々みんな頑張りましたが、中でも技術チームの奮闘は勉強になりました。一同、自信を深めたと思います」。

114年後を設計する
このプロジェクトが興味深いのは、完成をゴールに置いていない点にある。
「最低でも114年間、積算表示をする腕時計になりますので、未来のことも考えなければならない」と橋本氏は語る。「我々が残したものを見て、またそれを修理する人たちがいて……そのサイクルを作らなければならない。だから完成品だけではなくて、仕組み、考え方についても全く新しいものとなります。凄まじい挑戦でした」。
整備性への配慮は設計を見れば明確だ。こちらもまだ詳細は公開できないが、「自分たちがいなくなってもアフターサービスがしっかりと継続できるようにすることを念頭に考えていた」という河田氏の言葉には、114年という時間軸を引き受けた者の覚悟がある。プロジェクトメンバーにアフターサービス担当が名を連ねているのも、同じ理由からだろう。

得たものは技術だけではない。内山氏は「どんな無茶振りでも対応できるだろうな、セイコーにはそれくらいの技術者が集まっているなと再認識できました」と語り、河田氏は後進にこう呼び掛けた。「ある程度『思いつかれる』ことを超えてしまっても、色々なことをどんどん、怖がらずに挑戦していってほしい」。橋本氏が学んだのは、部門を越えることの意味だった。「自分の担当業務だけに集中していると生まれないような発想が多くある。違う立場に立って、違う方とお話をすることで新しいものを作っていく」。
完成した時計を手にした大谷選手は、こう述べた。「イメージした通りで、ちょっとびっくりしています」。そして、こう続けた。「(野球選手としてのキャリアの)終盤になり、ここまで歩んできた道や時間というのを意識した時に、その時間を確認するとともに、未来の姿を考えながら活力にできればいいんじゃないかなと。今日もまた頑張ろうって少しでも思える、そういうひとつの形として、Seiko Star Timeは素晴らしいものだと思っています」。
なおマスターサンプルは、2026年7月に東京・原宿、8月に大阪で開催された「SHO-ism Seiko|Shohei Ohtani - 10 Years Journey」にて公開された。いずれの会期もすでに終了している。
セイコーの総力を結集して生まれた、前人未踏のプロジェクト「Seiko Star Time」。それを証するかのように、YouTubeで公開されたドキュメンタリー映像には、すべてのメンバーの名前が記されている。
今回取材協力を得た「Seiko Star Time」プロジェクトメンバー
檜林勇吾(デザイン)
河田正幸(ムーブメント設計)
内山博紀(ムーブメント企画)
橋本涼(外装設計)



