それは、IWCの名設計者、クルト・クラウス氏と話をする時間を持てたことです。
ドバイ ウォッチ ウィーク、開催初日の17日。オロロジーフォーラムの壇上に、クルト・クラウス氏の姿がありました。60年近くにわたりIWCの発展に貢献し続けてきたクラウス氏の言葉に、会場中が敬意を込めて静かに耳を傾けているようでした。午前、午後、それぞれに登壇した後、クラウス氏の一行は急ぎ足で別会場のマスタークラスへと向かいました。ウォッチメイキングのプログラムの講師をするためです。
このクラウス氏のクラスは、顧客のみを対象としていたため私は参加できないものでした。ただ、それでも少しでもその現場を見たいと会場にへばりついていました。そしておそらく、顔に「いいな、いいな」と出てしまったのだと思います。予約で満席だったのに直前で1席キャンセルが出たとき、このクラスの担当の女性が、他にもたくさんのオーディエンスがいるなか真っすぐに私のところへ来て、会場内へ誘ってくれたのでした。
ところで今回のドバイ ウォッチ ウィークでは、彼女をはじめとしたスタッフの対応力の高さに驚く瞬間が多くありました。今回のようにリクエストに目いっぱい応えてくれたり、ふと話しかけてみた女性が既に私の名前を把握していたり。このイベントの成功裏には優秀なスタッフたちの存在も大きいのだろうと感じました。
さて、クルト・クラウス氏のクラスでは、9名の参加者はまず、IWCブランドロゴの入った白衣を着ることから始めました。会場ではサポート役に大勢のIWC社員たちが見守っています。分解組み立ての体験に利用したのは、受けや地板にも装飾が施された、IWCの教材用ムーブメントCal.98200。
クラウス氏のゆっくり穏やかな進行のもと、ピンセットやドライバーの持ち方など基本からはじまり、エネルギーを抜いて輪列を分解、組み立てをするまでを学びました。クラウス氏は絶えず動き回って参加者とコミュニケーションを取り、うまく作業できていれば褒め言葉を掛け、困っているようであれば自らその場で手本を見せていきます。
小話として聞き流してもらいたいのですが、約1時間のクラスの終盤、司会進行役の「参加者のうち、誰がいちばん優秀な生徒だった?」という問いかけに、クラウス氏は私を指してくれました。おそらく会場で唯一の経験者だったのでしょうから大人げないことですが、それでも天にも昇るようなとはこのことかと感動しきりでした。
翌日にも、同じような行程をこなすクラウス氏の姿がありました。ハードなはずです。ただでさえ、スイスからドバイへの遠路を来られたばかりです。近くで話せる機会があったので、思わず「お疲れなのでは?」と聞きましたが、クラウス氏は満面の笑みで、「Never!今までそう感じたことは一度もないよ」、そう答えてくれました。
しかしながら……御年83歳。その原動力は何なのだろう。「素晴らしいですね。もっとあなたと話がしたいです」。ついそう伝えた私に、彼はあっさり「もちろん!夕方になったら時間をとれるよ」と快諾してくれたのでした。
静かな場所で腰をかけて、私は率直に尋ねました。「1999年に引退後もIWCのアンバサダーとして世界中を飛び回っておられる。その原動力は何ですか?」
クラウス氏は少し考えてから一言、「それが私の、成功者としての責任だと思うからです」と答え、そしてゆっくりと続けました。
「引退する前の10年間は、私はIWCで若者たちとチームを組み、そして私の持つ技術の継承を行ってきました」。「They did it.見事に彼らは成し遂げてくれた。その時に必要だったのは、パッション、情熱でした」。「シャフハウゼンのIWCの工場の脇に、時計学校が併設されていて、今でも時々そこで若い生徒たちにウォッチメイキングについて教えています。私がそこにいることに意味があるのなら、いつまでもそうします。必要とされなくなる日がきたら、その時こそ私の本当の引退です」。
最前線から退いてもなお、クルト・クラウス氏の気持ちはIWCに強く注がれ続けているようです。
情熱的でありながらどこまでも優しく温かな人柄に、私の緊張はすっかりほどかれていました。
“IWCの頭脳”と呼ばれ時計史に残る偉業を成し遂げてきた、そんな彼自身のプライベートな部分について、こんなことも教えてくれました。
「私の趣味のひとつに“ドッグレース”があります。現役時代は、そのレースで走るウィペットという犬を4匹飼っていました。毎朝仕事に行く前に、6時から彼らを散歩に連れていき、近所の森で走り回らせてトレーニングさせていました。森の中で彼らの走る姿を見ながら、その時に取り組んでいる仕事のことについて考えを巡らせることが、私の日課でした。今はもう散歩に連れていく体力がないので、大型ですがおとなしいプードルを1匹飼っています」。彼はスマートフォンから画像を取り出して、とても嬉しそうな顔で、犬たちの写真を見せてくれました。
最後に彼は再びこう話してくれました。「ドバイに限らず、私は必要とされるなら世界中どこだって行きますよ。もう明日には帰るので、ドバイ ウォッチ ウィークの事務局の皆さんにサヨナラを言ってきたのですが、そうしたら『また来年ね』と言われました。もしかしたら来年もここにいますよ。また会えたらいいですね」。
多くの時計関係者たちが世界規模でつながり、1箇所で複数日滞在することで交流を深め、業界のこれからを語り合うことができるドバイ ウォッチ ウィーク。情報共有のプラットフォームとしての素晴らしい機能を、身をもって体験してまいりました。
そして今後、同様の機会が与えられた時にはもっと有益な行動を起こせられるよう知識を蓄えていきたい。そんな気持ちを新たにいたしました。そしてこのクラウス氏との時間は、これからもずっと私の背中を押してくれる気がします。ドバイに派遣してもらえたこと、改めて感謝します。(高井智世)