航空分野におけるブレゲの飛躍と「タイプXX」コレクションの歩み

FEATUREWatchTime
2021.10.21

ブレゲ一族は19世紀には時計業界に、20世紀には航空業界に革命をもたらしている。「タイプXX」コレクションは、そのふたつの領域において、数世代にわたって築かれてきた技術の粋を極めたものだ。豊かな背景を持ったこの時計の歴史を紹介しよう。前編では航空業界、後編では時計業界での展開を軸に迫っていく。

タイプ 20 オンリーウォッチ 2019

ブレゲが2019年の「オンリーウォッチ」オークションに出品した「タイプ 20 オンリーウォッチ 2019」。1950年代のパイロットクロノグラフ「タイプ 20」を復刻したもの。詳細は後編にて。
Originally published on watchtime.com
Text by Mark Bernardo
2020年10月14日掲載記事

 スイス、ヌーシャテル生まれの伝説的な時計師、アブラアン-ルイ・ブレゲ(1747~1823年)が1775年に創業したブレゲ。フランス王室御用達時計師としてマリー・アントワネットに愛され、後にナポレオン・ボナパルトを顧客に持った彼を原点とするこのブランドは、今日までさほど「ツールウォッチ」メーカーとして捉えられることはなかった。しかし、ブレゲの歴史をつぶさに見ると、実用的な計時装置開発への貢献を知ることができ、今日の時計コレクションへとつながっていることが分かる。例えば「マリーン」は、アブラアン-ルイ・ブレゲが1800年代にフランス海軍御用達時計師を務めていた時に手掛けたマリンクロノメーターからインスピレーションを得たコレクションだ。また「タイプXX」は、その始まりを、ブレゲのコレクションとしては初めて有人飛行の領域に踏み出した20世紀初頭の華々しい歴史を背景に持つ。

ルイ-シャルル・ブレゲ

1910年、ブレゲ・アビエーション社製の飛行機に乗り込むルイ-シャルル・ブレゲ(1880~1955年)。

ブレゲ・アビエーション

ブレゲ・アビエーション社は第1次世界大戦中、フランス空軍のための飛行機を製造していた。

 ブレゲ・アビエーション社の歴史はアブラアン-ルイ・ブレゲの曾孫であり、初期の航空業界の主要なパイオニアのひとりであったルイ-シャルル・ブレゲ(1880~1955年)から始まる。フランスのÉcole supériuere d'électricité校で電気工学の教育を受けたルイ-シャルルは、20世紀初頭に大きな潮流となっていた航空科学に魅了され、時計職人の先祖たちとは異なる職業の道を歩み始めた。1905年、ルイ-シャルルは弟のジャックと共同で、近代ヘリコプターの前身となる初期のジャイロプレーンを発明し、07年には初の垂直上昇飛行を実現させた。この発明は、その後数年における数々の画期的な発明の先駆けとなった。ルイ-シャルルは翼を固定した飛行艇「ブレゲ・タイプI」を製造。09年にシャンパーニュ地方で行われた、世界初の国際的な公共飛行イベント「Grande Semaine d’Aviation de la Champagne」においてフライトを行ってみせた。11年には、航空産業の発展のため飛行機製造を使命とし、「Société des Ateliers d’Aviation Louis Breguet」社(後にブレゲ・アビエーション社と短縮)を創業した。

ブレゲ・アビエーション

ブレゲ・アビエーション社製の飛行機のコックピットに搭載された時計。

 1914年に始まった第1次世界大戦は、飛行機が戦術的な役割を果たした初めての戦争となった。ブレゲ・アビエーション社は、ルイ-シャルルの母国フランスにおける戦争支援に大きく貢献する存在となっていた。同社は偵察および爆撃を目的とした戦闘機を製造し、「ブレゲ14」と呼ばれる複葉機の製造も行った。この複葉機はまた、機体に木材ではなく金属を多く使用した最初の大量生産航空機としても注目され、空中戦での軽量化と機動性の向上を実現した。ブレゲ14はアメリカを含む同盟国の空軍向けに輸出されるほど成功を収め、別の軽爆撃機である「ブレゲ19」や「763ドゥーポイント」などの他の重要なモデルの方向性を定めるものとなった。

 戦後、軍務を解かれたブレゲ14は、ルイ-シャルル・ブレゲが創業した航空郵便や航空貨物を取り扱う初期の商業航空会社「Compagnies des messageries aériennes」において活躍。同社は1933年にその他4社と合併して、現在のエールフランス航空となった。

ブレゲ・アビエーション

ブレゲ・アビエーション社の古い広告。

 第1次世界大戦が終結すると、ブレゲ・アビエーション社は軍事的な大量生産から航空科学の領域を広げることに舵を切った。1927年には南大西洋を初の無着陸で横断し、35年には時速67マイルの飛行記録を樹立した。33年に完成した「Breguet-Dorand Gyroplane Laboratoire」は、35年から36年にかけて試験飛行を行い、新記録を樹立したもので、近代的なヘリコプターの初号機とされている。このような独創的な試みにより、39年に第2次世界大戦が勃発した際、ブレゲ・アビエーション社は軍用機の生産に復帰した。

ブレゲ14

複葉機「ブレゲ14」は、偵察と戦闘の目的で製造された。

 ルイ-シャルル・ブレゲが航空分野で成功を収める一方で、彼の家族が経営する、パリに拠点を置く時計製造会社「Breguet et Fils」は、20世紀初頭に転換期を迎えていた。アブラアン-ルイ・ブレゲの曾孫であるルイ-アントワーヌ・ブレゲが31歳でこの世を去った後、彼のふたりの子供たちが家業の継承を断念したため、ブレゲの工場長を務めていたイギリス人時計職人、エドワード・ブラウンに会社が売却された。ブラウンの息子ヘンリーは、父の死と兄のエドワードの引退後、1900年に「メゾン・ブレゲ」と改名した会社の手綱を引き継いだ。